校歌・応援歌
堺中学校校歌
1937年(昭和12年)制定。
作詞・河井酔茗 作曲・永井幸次
堺中の校歌は校舎改築(昭和7年)を契機に制定の機運が高まり歌詞が募集されたものの、このときは制定に至らなかった。後に、当時の永野忠一教諭が河井酔茗氏に作歌を依頼して歌詞ができた。作曲の永井幸次氏は当時の大阪音楽学校校長。
作詞・河井酔茗 作曲・永井幸次
堺中の校歌は校舎改築(昭和7年)を契機に制定の機運が高まり歌詞が募集されたものの、このときは制定に至らなかった。後に、当時の永野忠一教諭が河井酔茗氏に作歌を依頼して歌詞ができた。作曲の永井幸次氏は当時の大阪音楽学校校長。
一 朝夕見馴れし緑の杜も
思えば畏(かしこ)き三帝陵
三国ケ丘の高台に
展望すぐれし我等の校舎
山は連なり海は展(ひら)け
教(おしえ)の精神(こころ)は天地に通ふ
二 記念の芝生は何をか語る
嘗(かつ)てぞ得難き御臨幸
玉歩(ぎょくほ)の址(あと)は本校に
永く伝ふる我等の栄誉(ほまれ)
共に仰ぐや聖代(みよ)の光
世に立つ力を養い学ぶ
三国丘高等学校校歌
1949年(昭和24年)制定。
作詞 高6回・吉武 愛 作曲 中22期・宅 孝二
作詞の山上愛さん(旧姓・吉武)は昭和23年の学制改革で堺高等女学校(現在の泉陽高校)から三国丘高校の生徒となった一人。校歌の歌詞募集に応じた当時、まだ16歳であった。病弱で休学を繰り返し、高6回として卒業した。
作曲の宅孝二氏は作曲家・ピアニストとして活躍、「社長シリーズ」など映画音楽も多く手がけた。
作詞 高6回・吉武 愛 作曲 中22期・宅 孝二
作詞の山上愛さん(旧姓・吉武)は昭和23年の学制改革で堺高等女学校(現在の泉陽高校)から三国丘高校の生徒となった一人。校歌の歌詞募集に応じた当時、まだ16歳であった。病弱で休学を繰り返し、高6回として卒業した。
作曲の宅孝二氏は作曲家・ピアニストとして活躍、「社長シリーズ」など映画音楽も多く手がけた。
一 空は晴れたり金剛の
山なみ遠く輝きて
若き生命をたたえつつ
自由の鐘を打ち鳴らす
理想は高し 三丘生
二 水は澄みたりちぬの海(み)の
波のうねりも安らかに
若き生命をたたえつつ
平和の祈り捧ぐなり
えい智は深し 三丘生
三 人は和(な)ぎたり学舎(まなびや)の
愛の契りは固くして
若き生命をたたえつつ
正義の旗を振りかざす
使命は重し 三丘生
堺中学校・三国丘高等学校 応援歌
作詞 中45期・紙野芳一
メロディは第四高等学校寮歌「北の都に秋たけて」による。
メロディは第四高等学校寮歌「北の都に秋たけて」による。
嗚呼(ああ) 東(ひんがし)の空遠く
東洋のベニスと謳(うた)われし都
堺の巷(ちまた) 低く見て
雄々しく立てり我等三丘健児
熱き情熱のかげに瞬く
不滅の光と不断の想い出
アカシヤ薫る学びの庭に
いざ歌わんかな 三国丘を
いざ讃えんかな 我等が母校
一 三国丘にそそり立つ
アカシヤの花かおる時
清き心のますらおが
雄々しく立ちて一世紀
二 我等が常に練りし技
今こそ晴れて示す時
母校の名誉を双肩に
担いし健児を君知るや
三 臥龍一たび火を吹けば
東に西に行くところ
我等が意気は天をつく
三丘健児の意気を見よ