万博との不思議な縁、感じて/関西パビリオンで活躍した坂口智美さん(高32回)
盛況のうちに先ごろ閉幕した大阪・関西万博は多くの人の胸にさまざまな思い出を残した。関西パビリオンの渉外ディレクターとして忙しい日々を過ごしてきた坂口(現姓・清家)智美さん(高32回)も無事に終わった安心感とともに、万博との深い縁、そこで出会った人たちに想いを巡らせているのではないだろうか。

花博でコンパニオンに 夫となる人にも出会った
坂口さんは母校から帝塚山学院大学に進学。卒業後、まだ自分の進むべき道も見えないまま家業を手伝ったり花嫁修行もして、お見合いも経験した。だが、この人ならという人と巡り会うこともなく、一方で徐々に「外に出て仕事をして、社会で通用するのかどうか試してみたい」と思うようになる。ある日、たまたま見かけたポスターにひきつけられた。ピンクのチューリップの花束を胸に微笑む女性と「いっしょに咲こうよ!」というキャッチコピー。大阪で開かれた国際花と緑の博覧会(花博)の大阪市出展パビリオン、「咲くやこの花館」のコンパニオン募集ポスターだった。応募してみると46倍という倍率だったが、難関を突破して採用された。1990年、27歳の時だ。
この花博で坂口さんはのちに夫となる清家一弘さんと出会う。カメラマンからコピーライターを経て当時は花博の運営ディレクター。万博を愛し、その仕事に全力で打ち込む姿を尊敬し魅力を感じた。後でわかったことだが、ポスターの花束を抱えて微笑んでいた女性を撮影したのは清家さんだった。
結婚生活わずか1年半で
一方、花博閉幕後、坂口さんは「マイクを持つ仕事っておもしろい。しゃべる仕事は自分にむいているのかも」と思うようになり勉強を始める。オーディションに受かりラジオ大阪の放送記者に採用され、生放送に向けて毎日インタビューに走り原稿を書き生放送するという日々を丸3年間続けた。放送した番組は実に777本。坂口さんの修行の時代だ。その後、フリーアナウンサーとして仕事をしながらも、父親の介護、病気を抱えた母親の世話をする日々が続いた。2人が結婚したのは18年後。坂口さん46歳、清家さんは10歳上だった。思い出の場所「咲くやこの花館」で、母の誕生日でもある11月22日に式を挙げた。東京で広告関係の仕事をしていた清家さんだが、大阪で共に暮らすようになった。「最初で最後の恋」が実ったと思ったのも束の間、わずか1年半後に清家さんは急逝。過労のせいと思われた。
「後を追うことも考えた」というほどショックを受けた坂口さんだが、心の支えとなってくれた母親、そして仕事があったからなんとか生きてこられたという。
3度目の万博は渉外ディレクターとして活躍
そして2025年、大阪・関西万博。アナウンサーとして万博の起工式の司会をしたことがきっかけで、坂口さんは関西パビリオンで働くことになった。1990年花博の後、2005年の愛・地球博でもプロトタイプロボット展で話し方コーチを務めていた坂口さんにとって、3度目の万博だ。しかも、館長の森健夫さんは三国丘高校の同期生だった。
坂口さんの今回の仕事は渉外ディレクター。メディアの取材に対応したり要人を接客したりする仕事で、事実上の館長補佐の立場だ。
関西パビリオンは2010年にできた関西広域連合によるパビリオン。滋賀、京都、兵庫、奈良、和歌山、鳥取、徳島、福井、三重の9府県が出展した。完全予約制だが、日に日に人気を呼び、「なかなか予約の取れないパビリオン」のひとつに。万博最終日には、入館者148万人を達成するまでに至った。
入館者148万人達成を祝う式典で司会をする坂口さん(左)。右は関西パビリオン館長を務めた森健夫さん。
森さんは関西電力から関西広域連合に出向中。京都大学特命教授やワールドマスターズゲームズ2027関西組織委員会事務局長なども務める忙しい身だが、関西パビリオンは6年前の準備段階から関わってきた。坂口さんには時にはきびしいアドバイスもするものの、あたたかく見守ってくれたようだ。
「森さんは私にとって同級生であると同時に『上司』なんですが、その仕事ぶりには感心させられました。何でもできるすごい人なんです。三国丘高校出身者ってやっぱり優秀な人がたくさんいるんですね。万博の仕事が本当に好きだった清家がいたら、良き仕事仲間になっていたと思います」と坂口さん。
フリーアナウンサーの仕事と並行して、現在、大学で話し方教育の講義も持っている。これも高校の同級生(高32回・舩曵信生さん。岡山大学工学部教授)が声をかけてくれたことがきっかけだ。夫を亡くして1年後くらいのことだったという。若い人には常々「人生はプラスマイナスゼロ。人は居場所と役目があれば生きていけるよ」と伝えているそうだ。
「人生の節目節目で、三丘生には助けられているのです。主治医も同窓(高30回・永田就三さん。和泉市医師会会長で坂口さんの従兄弟でもある)ですし。奈落の底に落ちても、ひとすじの光がさすように──母校のご縁って本当にありがたいと実感しています」とも。
今年11月15日の東京三丘会総会では司会を務めた。そのときもらった母校創立130周年記念のどら焼きを手に。
(2025.11.20)
