三丘同窓会

「拝啓われらが先生!」第6回・吉川浩先生/笑う門には福来たる
 

 吉川浩先生は1935年(昭和10年)奈良県生まれ。3歳からは京都府立植物園の近くにお住まいでした。ぜんそくの持病があり、学校を休みがちで、学業は人一倍努力されました。
 「医学部に行きたかったです。受験しましたが倍率が43倍でダメでした」と苦笑い。京都府立大学の農学部に進学し、応用昆虫学を専攻されました。「この学科を希望したのが僕一人でね、よく指導してくれました。非常に楽しかったです」
  3回生の10月に、教授からハワイ大学での仕事に推薦されました。「でもね、卒業年度が合わず、かないませんでした」

 卒業後、非常勤で京都府立桃山高校に勤務。後に、三重県の中学に採用される。「田舎でした。敷地内に職員住宅があり、個室、賄い付きでありがたかった。でもね、月給が1万円でした」。ちなみに祇園祭でもらったバイト料が1日500円で「同じくらいですね」と懐かしそうに回想。
 三重県と大阪府は交流があり異動。枚方市の中学で2年勤める。高校で教えたい気持ちがつのり、ろう学校の高等部で1年勤める。「手話ができなくても口の動きから読みとってくれたので、教えることに不自由はなかったです」
 その後、縁あって母校に赴任されました。
 「色々なところに行きましたが、それなりに楽しかったです」

授業を面白く楽しくしたい

 母校には1964年(昭和39年)29歳の時に赴任されました。お母さまが29歳で早世されており、感慨深かったとのこと。それから退職まで母校で勤められました。
 専門は生物。ですが化学教員が足りず、赴任当初は化学も担当されました。「僕は『丁稚』のようなもので、周りは『番頭さん』ばかり。しんどかったです」
 化学の授業の準備に追われて、教えることに精いっぱい。そんな折、「授業以外のことも話してください」という学級日誌の言葉が目に留まる。「これではいけない。何とかして授業を面白く楽しくしたい」と工夫されたとのこと。
 「『ウミホタル』を発光させて撮影し、生徒に見せたこともありました。生物の授業は日常生活とつながりがあるので、材料が豊富でした」

年賀状を冊子にして配布

 「化学を担当したことで3年生の担任を持てました」。
 1970年に初めて3年生の担任を持たれました。その高23回のクラスは思い出深いとのこと。「卒業して散り散りになり、連絡も取れないのは寂しい。何とかして仲間はずっと一緒にあり続けたい」と、毎年届く年賀状をまとめて冊子にして、各生徒に配られました。卒業後に男子生徒が世話役をしてくれて旅行にも行ったそうです。「僕の気持ちにも応えてくれて、非常にうれしかった」。冊子の配布は2010年まで続けられました。
 母校での最後の授業を終えた時、「寄せ書き」をプレゼントされてとてもうれしかったそうです。「寄せ書きは初めてでした。努力が報われた気分でした。『先生の笑いのセンスは目を見張るものがある。退職後は吉本興業からスカウトが来ると思う』とありました。でもね、残念ながらスカウトはありませんでした」とクスっと笑われる。その時の学級日誌と寄せ書きは、今も大切にされています。

趣味の写真は玄人はだし

 写真にはまったのは高校3年生のとき。友人から蛇腹式の写真機をもらい受けたのがきっかけ。自分で現像もされました。「みんなが寝静まってから暗いところでやりました」。母校に勤めてから、憧れの「NikonF3」を購入されました。「『三国カメラ』に中古が出ていてね、何とかして手に入れたいと思いました。でもね、中古でも当時11万円もしました」と少し誇らしげな笑顔。
 三丘資料室に保存されている体育祭スタンドアーチの写真(1974年~1991年)は吉川先生の作。「当時はフィルムカメラでしたから、プリントしたものを3つ貼り合わせてつなぎました。アーチ製作にかける三丘生のエネルギーには圧倒されました」
 趣味の写真撮影は今も続けられています。カレンダーにして配られるそうです。「会話が弾むのでね」とにっこり。「笑う門には福来たるだよ」と、終始穏やかで笑顔あふれる取材でした。

(聞き手=高33回・村井薫、高39回・東良庄吾、高48回・渕上猛志)

吉川 浩(よしかわ ひろし)先生
1935年生まれ。京都府立大学農学部卒。
1964~1996年、母校に勤務。光画部(写真部)顧問を務めた。母校退職後は日根野高校にて勤務。
趣味の写真では国際文化カレッジ写真展(優秀賞)、堺市第5回写真コンクール「緑のあるまち堺」(堺市会議長賞)、大阪府「大阪のみち99選」(入選)等の入賞歴がある。
 
〔2023.6.28〕