「拝啓 われらが先生!」第5回・枩野 正剛 先生/教職と住職の仕事に「全集中」
恩師を訪ねるこのコーナー、第5回となる今回は枩野正剛先生(高18回)にお話を伺いました。枩野正剛先生。光念寺にて。
緊張感の連続だった
1972年に母校に数学教師として赴任しました。北本清先生が教頭に昇任され、その後任としての着任でした。「すごい先生の後を継ぐんだ」ということと、母校を卒業してわずか 6年なので職員室は恩師ばかりで緊張の連続で した。在校時に担任をしていただいた金丸光一先生もおられ、「何をしにきたんだ」と笑われたこともありました。18年間の勤務期間中、14年間は担任を務め、主任も何度か担当しました。ちょうど第2次ベビーブームの世代で、1学年が16クラスの時もありました。授業編成や教室の割り当て、校外での体育祭等に苦労したことを思い出します。
数学の授業で別解をしてキラリと光る生徒がいました。おもしろい発想をする生徒もいましたね。線をたどってゆくと文字になるような年賀状をもらったこともあって、そういうのを見るのが楽しみでした。水泳部とバレーボール部の顧問をしました。水泳部の対外試合を引率し、プールサイドで競泳の計時員もしました。うまくできなくて冷や汗をかいたこともあります。
母校在学時は生物部に所属し和歌山の臨海研究所での合宿でウニの人工授精を実験しました。母校3年時は男子だけのクラスにいました。「面白いことは何もない」とがっかりしたこともありました。
生家の寺を継いで
生家の堺市金岡町の光念寺は、室町時代(1407年)建立。地元の小学生が、本尊の阿弥陀如来(あみだにょらい)や古くから伝わる脇差しや古銭などの文化財を見学にやって来ます。父は堺中学、姉と弟も母校の卒業生です。自分も母校に進学するものと思っていました。プレッシャーを感じていました。小学校の通知表に、「落ち着きがない」とか「人の上に立つ器ではない」と書かれたこともありました。 スポーツはしなかったので、静かな、目立たない子だったと思います。寺の跡継ぎになることは当然と思っていました。教師になるのも自然の流れでした。私が 37歳の時に父が他界し、光念寺の住職を継ぎました。以降、教職と併せて務めることになりました。 教職では、教えることに全力で取り組み、住職の仕事は持ち込まない主義を貫きました。「教師として授業できち んと勝負する」「真剣に取り組むことで生徒から信頼され質の良い授業ができる」と信念を持ち実践しました。そのために、授業がない時間や休日にも、問題の作成、解き方の研究、授業の進め方等について、勉強を続けました。今でも大学共通テストの数学の問題を解いています。
教職や住職以外の仕事に就きたかったという思いはないです。その時その時に集中して過ごしてきたと思います。弱音は吐くことはなかったですね。
赴任当時は、高26回の2年、3年の数学を担当。生徒とは年齢も近く兄貴のような存在。73年の文化祭では高26回の有志が制作した映画に特別出演。
淡々と誠実に
気負わず誠実に日々を送れるように気を配っています。例えば、信号はぜったい守る。誰も通っていない道路の信号でもきちんと守り、規則を順守しています。最近は、光念寺の住職として、檀家(だんか)さんの法事、お寺のメンテナンスを行う日々を送っています。庭の手入れも行っています。掃除することは昔からの日常で苦になりません。
同窓会にはできるだけ参加するようにし、第一線で活躍している人の話を聞くのが楽しみです。この年になるとなかなか新しい友人はできないと思います。同じ時間を共有したことで、すぐにその時代に戻れるのも良いですね。母校在職時の先生方とは、今でも旧交を温めています。卒業生の方も同窓会等を活用し、同窓生の旧友を大事にして欲しいと思います。また、卒業した学校を大切にして欲しいと思います。
〔聞き手=高26回・妹尾敏男、高33回・村井薫〕
枩野 正剛(まつの せいごう)
1947年生まれ。大阪市立大学理学部数学科卒業(現、大阪公立大学)。泉北高校、母校、堺東高校、大手前高校に勤務。大阪府教育委員会に出向(1990〜1993年)。登美丘高校校長(2003〜2006年)、堺西高校校長(2006〜2007年)。現在は、光念寺の第20代住職。