「拝啓 われらが先生!」 第3回・兵頭修美先生
道は自ら切り開く/力強い生き方の原点は 戦後を生き抜いた経験にあった
働かざる者食うべからず
6歳の時に終戦。その年の12月に外地から引き上げてきた。父が4人の子どもと臨月の母を連れ、釜山までは無蓋貨車で、そこからは鉱石運搬船で博多に渡った。当時、日本海にはアメリカの魚雷がいっぱい浮いていて、小さい船だとそれにあたってたくさん沈んだ。船腹にはガス抜きの隙間が40㎝ほど空いていて、そこから子どもが落ちて死ぬこともあった。愛媛の出石という小さな町に父の実家があり、蚕棚入れに使っていた6畳一間で蚊、ノミ、シラミにたかられながら一家7人が3年間を過ごした。風呂もトイレも屋外で夜は真っ暗で怖い。田舎なので食べ物はあったが、子どもでも何かしら仕事をした時代。18歳まで田んぼでも畑でも山でも働いた。あの当時、みんな必死だった。
とにかく外に出たかった
父は歴史の教師で、戦後は愛媛県の県立高校の校長や市の教育長を歴任した地元の名士だった。父たちが働きかけて普通科男女共学にした愛媛県立長浜高校に入学。私は世界史が得意。でも数学は苦手で、試験で三角関数の問題を白紙で出したら、父の耳に入り叱られた。地元は田舎、最寄り駅は3時間に1本程しか列車が来ない駅。地元で就職といっても「まんじゅう屋の店員」くらいだった。父には「大学は国公立しか行かせない」と言われて必死で勉強した。入学したのは、当時、帝塚山にあった府立大阪女子大学。ここの図書館の蔵書がすごかった。国文学科で、専攻は近世・俳諧。国文学科には当時一流の先生方がたくさんおられ、その中でも謡曲の大家であった前田正民先生との出会いは忘れがたい。金沢の侯爵・前田家の家系で、とても上品な黄髪と朗々たる美声に憧れていた。謡曲を学んだことは、腹の底から発声するので教室に声がよく通るようになりとても役に立った。今も時折、一人で謡ったりする。
最初は、父の意向に従い愛媛県立大洲農業高校に勤務。豚や牛はおるわ、男子生徒が町の不良らとよくけんかするわで、鍛えられ、警察に何回も行ったりした。とにかく田舎を出たかったので、親にも学校にも内緒で大阪府の採用試験を受験した。採用の電報が追いかけるように届き露見してしまったのであちこち頭を下げて大阪へ。
三国丘高校へ
授業風景(1983年頃)
大阪での教員生活は府立佐野高校から。3畳一間・共同トイレ・銭湯通いの生活だったが、一人暮らしは気楽で良かった。その後、当時の小野雄三校長の面接を受けて、年度途中の1968年6月に三国丘高校に着任。そこから20年、長年の勤続はそろそろ…と促され、堺東高校に異動して11年。定年退職後、鳳高校(定時制)に。しかし、母が認知症になり介護のため、再び退職した。
当時の三丘生の印象は「表面的にはお行儀が良い。でも上手にさぼる」「事を荒立てず、上手に自分の好きな事をする」「3〜4人で商店街まで下りて行って、5時間目の授業に遅れても上手に口裏を合わせていたわねえ」。授業中に後ろの方の子が違う本を読んでいたから「たまには教科書も読みなさいよ」と言ってやった。先生も生徒もおおらか。ギスギスしない。でも、やらなあかんときはやる。やりやすい学校だった。
赴任当初は、先生方にも驚いた。長くお勤めのものすごいお年の先生がいたし、お酒の匂いをさせていた先生、授業中に居眠りされる先生、職員室でのロマンスもあった。
印象に残っている生徒は、小説家になった小川内初枝さん(高37回・太宰治賞受賞)。彼女の作文に批評をつけて返したことがある。高校時代から個性的で、そこを伸ばしたらいいと書いたら喜んでくれた。
最後に三丘生へのメッセージをお願いした。「出身高校の名前を誇れる土台があることは素晴らしい。しっかりした仕事をしてほしい」とのことだ。
先生は今
堺東高校への通勤のため50歳にしてバイク免許を取得。雨の日の危険性を同僚から指摘され、改めて自動車免許を取得。初代はジェミニ。最初の運転は高速道路で堺と岡山を往復し、皆に呆れられた。以後これまで車の運転は欠かさず、今は4台目の軽自動車を愛用している。教師を辞めてから絵を描き始めた。地元の油絵講座から今は絵画サークルに所属してアクリル画や油絵を描き、年2回の展覧会などに出品している。
〔取材=高33回・村井薫、高34回・小池稔、高37回・南口陽子〕
兵頭 修美 (ひょうどう なおみ)
旧姓・井出 。1938年生まれ。大阪女子大国文学科卒。68年〜89年、母校国語科教諭、文芸部・雑誌部顧問。娘さん夫婦と孫3人の6人暮らし。愛犬との朝夕1時間の散歩が日課。
(2020.6.6)