三丘アカシアトークカフェ 第8回開催/宮川徏さん(併設1期)「大山古墳はなぜ巨大化したか」
10月3日、第8回三丘アカシアトークカフェが開催され、定員いっぱいの50人が参加した。講師を務めたのは歯科医師であり、かつ在野の考古学研究者として60年余りにわたって活動してきた宮川徏(みやかわ すすむ)さん(併設1期)。1955年のいたすけ古墳破壊の危機に際しては森浩一さん(中47期。同志社大学名誉教授。2013年逝去)らとともに保存運動にも参加した。文化財保存全国協議会元代表委員、奈良県立橿原考古学研究所顧問でもある。この日の講演のタイトルは「百舌鳥古墳群で大山古墳はなぜ巨大化したか─ヤマト王権の覇権と統治をさぐる─」。研究者の立場から百舌鳥・古市古墳群の世界遺産登録認定をめぐる昨今のブームには批判的な視線を注ぎつつ、時に大胆な推測を交えながら、謎とドラマに満ちた古墳の歴史を語っていただいた。
大山古墳はなぜあれほど巨大になったのか。5世紀の「倭」がなぜこれほどの巨墳を造らねばならなかったのか。
海外から来た使節が船の上から見ることを意識して造られたという説があるが、根拠はないんです──。コロナ禍の折からフェイス・シールドを装着した宮川さんが話し始め、満席の参加者が耳を傾けた。
前方後円墳の大きさはどうして決まるのか
前方後円墳の後円部は日輪を象徴し、前方部は大地と水の祭祀空間である。一筆書きに円と方を平板的につなぎ合わせたような安易なものではない。後円部の直径を8等分した1マスを「区」とし、この区が前方部の長さを決める単位になる。後円部は一律だが、前方部はその長さにより1区型〜8区型まで設計することができ、これにより多様な前方後円墳が生まれた。前方部の長さや大きさは首長の系列の違いや階層的な身分秩序の差を表すものでもあった。
また、宮川さんたちは共同研究を進めてきた結果、前方後円墳の築造にあたっては、倭独自の「ヒロ」という単位が物差しとなったと考える。
ヒロは「両手を左右に広げた時の両手先の間の距離」で、身長と同じ。当時の倭人の成人男性の身長が162〜165センチ、成人女性で150〜155センチとされる。160センチ台のヒロを「大ヒロ」、150センチ台のヒロを「小ヒロ」とする二つのヒロで造られた古墳があり、被葬者の性別や古墳造営の背景を考える手がかりになるかもしれないという。
奈良県の箸中山古墳(箸墓)は卑弥呼の古墳ではないかと考えられているが、この古墳は6区型、1区13ヒロ、そして1ヒロは約154センチである。
「8」は倭人社会では佳き数とされていた。「13」は太陰暦の閏13カ月に相当する可能性がある。最高首長の古墳造営に際して「13」を用いたのだ。
大山古墳と誉田御廟山古墳。墳丘長は大山古墳のほうが誉田御廟山古墳より2区、約66メートル長いが、これは7区型と5区型という設計の違いによるもの。1区のヒロ数は同じ規模の「同大」の巨大古墳となる。
宮川さんが手にしているのは「ヒロ棒」。古墳から割り出したヒロの長さを写し取ったもので、古墳築造の現場ではこれを地面に当てて地割した。
朝鮮半島に進攻、しかし高句麗に敗退した倭は・・・
4世紀代の大王墳は1区13ヒロで設計されていた。ところが、5世紀に入ってこれを超える巨墳が造営される。当時、倭は百済と組んで朝鮮半島に進出した。高句麗から圧力を受けていた百済を軍事的に支援し、引き換えに鉄を百済から入手しようとしたのである。しかし倭と百済連合軍は391年と399年に高句麗と戦って敗退。404年にも倭が敗退。このことは広開土王碑に記されている。
大塚山古墳は高句麗戦に参加した悲劇の武将の墓?
5世紀前半、最初の大型前方後円墳、百舌鳥大塚山古墳が築造された。この古墳には高句麗戦での敗北の痕跡がみられる。大塚山古墳は後円部直径102メートル、墳丘長168メートルの規模を持つ首長墓であった。戦後、破壊されてしまったが、宮川さんは森浩一さんらとともに破壊前の緊急調査に参加、調査記録を残すことができた。
大塚山古墳は中心埋葬施設が明確でなく、謎であったが、宮川さんは「被葬者は朝鮮半島に進攻した倭兵の指揮官ではなかったか」と推測する。現地で戦死、あるいは帰途遭難して埋葬されなかった。そのため中心埋葬施設が未完に終わった「空墓」ではなかったのかと。
古墳からは武器や工具が多数出土。中には特異な形をした鉄器があった(下の写真=復原したものに長柄をつけた)。騎馬兵を引っ掛け、引きずり落とすためのものと思われる。
悲劇の武将に従って従軍した部下が、高句麗と戦った印として他の武器や工具とともに持ち帰り、埋葬したのかもしれない、と。
敗北でケガサレたヤマト王権
王の権威が世俗的な権力だけでなく、その身が体現する霊力が信じられていた時代。王がケガサレた時はそのケガレを払拭しなければならない。ヤマト王権は1区13ヒロより大きい1区16ヒロの古墳を造った。1区16ヒロ、6区型の石津ヶ丘古墳(履中陵)だ。ケガサレた大王の霊力を挽回し、大王の権威をより強力に回復する姿勢を示したものだ。高句麗戦での敗北を乗り越え、「倭王いまだ健在なり」というメッセージを発信したものと考えられる。キビの首長連合の挑戦
ところが、新たな動きが出てきた。キビ(吉備。現在の岡山県)の首長連合が、石津ヶ丘古墳と同一設計、同一規模の6区型、1区13ヒロの造山古墳を造営し、ヤマト王権と対峙する姿勢を見せたのだ。
ヤマト王権が倭の支配体制を強めていく動向にキビは危機感を持っていた。そして高句麗との敗戦でヤマト王権が動揺し、巨墳の造営でその動揺を乗り越えようとしている時、動揺の隙を狙うように同一規模の古墳を造った。キビ首長連合の挑戦だ。
ヤマト王権がこの挑戦を受け、造営したのが5区型、1区20ヒロの超巨大古墳、誉田御廟山古墳(応神陵)。さらに7区型、1区20ヒロの大山古墳を造営してキビを圧倒する。キビ首長連合は造山古墳の後、1区13ヒロの作山古墳を造ったがこれが精いっぱい。巨墳築造競合は終わる。
大山古墳は崩壊していた
墳丘の長さでは最大となる大山古墳だが、実は戦前から墳丘がかなり崩れていたことがわかっている。百舌鳥古墳群のすぐ西側には、豊中から岸和田の久米田池周辺まで「上町活断層」が走っており、研究者の寒川旭氏によると、大山古墳の墳丘の崩れは地震の振動波による地滑りによるものだという。しかし、同じように上町活断層に近接して築造された石津ヶ丘古墳や田出井山古墳には墳丘の崩壊箇所は見られない。これはなぜか。大山古墳の造営が始まってしばらく経った頃、キビが巨墳築造競合から手を引いたという情報が入ってきたはずだ。そうなると、大山古墳の現場ではキビに対する緊張感がなくなる。相次ぐ巨墳造営の疲弊が蓄積されていた王権内に手抜き的な緩みが生じたのではないだろうか。
古墳が巨大化したのは外国の人に見せるためではない。ヤマト王権が権威を保つため、メンツを保つためだった。それが真相ではないか。宮川さんは語る。
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時間の関係で後半は駆け足となり、参加者もまだまだ聞きたかった様子。古代史への興味をかきたてられる興味津々のひと時であった。最後はいつものように、みんな笑顔で記念撮影!
(2020.10.14)