「拝啓われらが先生!」 第1回・原口俊雄先生
──先生はずいぶん長く三国丘高校に在職されましたね。原口 僕が三国丘高校に赴任したのは東京オリンピックの昭和39年、君たち19期の入学と同時だったね。それから26年間。なぜこれほど長くこの学校にいられたのかというと、まずここの生徒が賢く、話せば分かる理性派が多く、居心地がよかったせいだろうなあ。新設校へ応援のため転勤してくれませんか、などの斡旋は受けたが、当時は断ることができた。僕以外にも金丸先生や藤本先生など30年近く勤務された先生方もたくさんいらっしゃるよ。
──英語の先生を志すことになったきっかけについて教えてください。
原口 徳島の阿波中学校という旧制中学の5年時(昭和21年)に植木吾一先生が赴任された。先生はのちに旺文社を興した赤尾好夫氏や、代々木ゼミナールの原仙作氏など、「受験英語の神様」と崇められた人たちとの親交があった。このお二人が出していた「ユースコンパニオン」と言う英語新聞があり、その新聞に載った植木先生執筆の記事を授業で見て、先生に対するリスペクトが生まれ、英語に興味をもったんやなぁ。戦後、英語学習の機運が高まった時代に青年期を過ごしたこと、植木先生にお会いしたこと、これらから僕のその後がスタートしていると言っていい。
──先生はその後、広島文理科大学、のちの広島大学に進学されたんですね。
原口 戦前に東京と広島に中等学校教員養成のため、それまでの「高等師範」のはたらきを持つ「文理科大学」が設置された。中等教育の指導者を育てる大学として、「東の東京」と「西の広島」と呼ばれていたんだ。
──最初の勤務校はどちらですか?
原口 兵庫県の市立西宮高校、愛称「いちにし」。「夏の甲子園」では2年生女子が出場校のプラカードを持つよ。
──先生は卒業生を含め、ほんとうに生徒についてよく記憶されておられますが、どうすればそう覚えられますか?
原口 やはり生徒の特徴をようく覚えていくことに尽きるかなあ。特に努力したということはないよ。
──26年間に教えられた生徒さんの中で記憶に残っている方はいますか?
原口 いっぱいいるよ。君らの同学年にも彼女に告白する時「僕と結婚してくれへんかったらここから飛び降りる!」と図書館棟で叫んだ勇敢な者もおったなあ。
よくテレビに登場する心臓外科医の澤芳樹君(高26回)も阪大に入ってすぐに運転免許が取れ、嬉しそうにGFを連れて和泉市の我が家に遊びに来てくれたよ。
しかし、やはり心に残る一言を言ったのは現在奈良女子大准教授の松岡由貴さん(高39回)かなァ。彼女は「創立九十周年」記念式典でも堂々と生徒会長として代表あいさつをし、当時の吉岡校長を感激させたものだ。その彼女が卒業も押し迫ったある日、ホームルームの時に担任の私に突然叫んだんだ。「三国丘が好きでたまらん!先生、わたし留年したい!」ってな。この言葉には参ったねェ…その後、阪大と東大、両方合格した結果、東大を蹴ったのでもビックリさせられた。
──本当に教師冥利に尽きる言葉ですね。そのほかにご記憶に残る出来事は?
原口 そうだなぁ、僕は新聞部以外に校務分掌として生活指導も担当していた。本校で生活指導上の問題行動のようなものは喫煙ぐらいだったな。
そのほかに記憶に残るのは昭和44年10月21日、「国際反戦デー」の早朝、本校の社会科研究室にオルグに来た他校生数名が入り、うち一人が逃げ遅れて取り残されるという事件があったんだ。警戒していた我々が発見し、相手校の先生に引き取りに来てもらった。時代を象徴する一つの事件だったね。
嬉しいことでは昭和59年2月、野球部に春のセンバツ出場決定の報が入る日のことだ。我々新聞部も電話が入るだろう校長室に行ったが、マスコミが殺到していてテレビカメラのコンセント争いが始まり、往生した。
高22回卒業アルバム(昭和44年に撮影と思われる)から。前列左端が原口先生。
──さて、先生は授業でよく「辞書に帰れ!」と指示されましたが?
原口 英語には数学とは違って、はっきりした答というものがない。したがっていつも頭を整理している必要がある。そのため授業中でもどしどし辞書を引かせる。君たちの授業でも辞書のぺージを先に知らせておいたよな。今では、電子機器で簡単に語学情報を得ることができるが、僕が思うには、英語力を高めるには「英英辞典」などを活用し、英語での思考方法を身に付けさせることが大事じゃないかなと思う。より高次な言葉理解ができるようになると思う。
──ところで先生の現在のご趣味や得意なことと言うとどんなことですか?
原口 囲碁と懐メロかな。以前はラジオで、今はテレビでも観るよ。「高校三年生」などが好きでよく楽しんでいる。
僕はいまこうしてこんな老人マンションにいるが、これでも70歳にして初めて運転免許証を取ったんだ。何事にも挑戦する気持ちは衰えてないよ。
在勤時、常々生徒には「年賀状は一行でも自筆で書け!」と言ってきた。人とのつながりを大切に、今後も三国丘の生徒の活躍を見守りたいね。
──原口先生、長時間ありがとうございました。
(聞き手=高19回・小林昇一)
原口俊雄(はらぐち としお)先生 昭和4年8月28日生まれ。広島文理科大学(現在の広島大学)卒。西宮市立高校に10年勤めた後、昭和39年4月〜平成2年3月、母校に在職。その後浪速高校、奈良学園で教鞭を執った。