母校の歩み(1)
大阪府第二尋常中学校、府立堺中学校の創立
本校の前身である第二尋常中学校は,大阪市内の第一尋常中学校(現在の北野高校)に対して大阪府の郡部(郊外)で初めて1895(明治28)年1月11日に設置された。時あたかも日清戦争の下関講和会議のはじまる70日前のことである。大阪府では続いて40日後の同年2月21日に第三尋常中学校(現在の八尾高校),第四尋常中学校(現在の茨木高校)が設置された。郡部中学校はこれで摂河泉に各一校となった。その後,1899(明治32)年に「中学校令」が公布されて大阪府第二中学校と改称され、1901年に地名を取って大阪府堺中学校、翌年に大阪府立堺中学校と改称して1948(昭和23)年の学制改革に至った。その間53年間50期生まで、約4,800名が巣立っていった。
明治28年「職員録」
内閣官報局発行による明治28(1895)年11月10日時点の職員録。同年創設の本校についても「第二尋常中学校」として、有馬純臣校長以下の職員が記載されている。当時の府県立中学校の職員は、俸給の負担は地方自治体(府)だが形式上は国の官吏であった。創立間もない時期ではあるが、学校生活をうかがい知ることができる文書資料が、府への提出文書や訓令などの公文書、規程などの校内文書の形で多く残っている。
特待生名簿
明治28年、文部省の「訓三第六八号」で定められた大阪府第二・第三・第四尋常中学校の授業料規程に則して、本校でも特待生規程が定められ、翌29年から学年成績の優秀者が一年間の授業料が全額免除された。特待生は全学年で10名程度にすぎず、校友会誌「茅渟の海」にもその氏名が掲載された。特待生制度が廃止されたのは大正7年であるが、明治29年度から大正5年度にいたる特待生名簿が作成されている。中学1期 卒業写真
明治33(1900)年4月5日、第1回卒業式が挙行された。前列右から8人目が二代石川弥太郎校長。創立の明治28年4月に入学した者は156名の第1期生のうち、卒業したのはわずか33名(21%)だった。理由は様々だが卒業がいかに困難であったかがうかがえる。卒業生の中でのち話題になった人物に与謝野晶子が「あゝおとうとよ、君を泣く」に始まる「君死にたまふことなかれ」(明治37年)に詠んだ鳳籌三郎(ほう ちゅうざぶろう)がいる。