「人の力がすべて」
登美丘地区でまちづくり活動/高22回・池﨑守さん
堺市東区、高野線北野田駅を中心とする「登美丘」地区。ここをフィールドとしてまちづくりに奔走する池﨑守さん(高22回)が地域活動を始めたのはまだ28歳の頃だ。
祖父の代からの米穀店。いずれは家業を継ぐと決めていたが、池﨑さんが大阪大学工学部の学生であった頃、父親がけがをしたこともあり、大学卒業後に早くも店を継ぐことに。米屋の毎日は正直、フラストレーションがたまっていたと言う。
当時、関空の建設に向け大規模な道路整備計画が動き始めていた。地元も無関係でない。どういう計画がなされていて、生活にどんな影響があるのか。通学路はどうなるのか。仲間たちと勉強会を始めた。手作りの新聞を配って歩いた。自然とさまざまな要望を聞くようになる。行政にあたってみる。議員とディスカッションする。こうして家業の米屋のかたわら、地域活動に取り組むようになった。
池﨑さんには尊敬する人がいた。大学の先輩で当時、大阪府立大学(現大阪公立大学)の教授。先輩は地域社会の大切さを、地域社会こそが基本であることを説き、その思想はずっと池﨑さんの胸の中にあった。アジア各地を旅して回り、日本、自分が今住んでいる街の良さを認識し、これを継承していかねばならないとも思っていた。
まず防犯から
1996年、仲間と一緒に「まちづくり委員会」を設立。2002年、登美丘地区防犯委員会会長となる。同年5月、地域にセンサーライトを設置。街頭への設置は全国で初めてのことだった。合同パトロールも始めた。それまで登美丘地区の伊勢街道は「ひったくり街道」と呼ばれる街頭犯罪多発地帯だったが、劇的に減少した。
パトロールは今も続いている。若者も女性も参加、100人から200人、多い時は300人もの住民たちが街を歩くというから驚く。 高校生たちの元気な声が響く北野田駅前でのあいさつ運動。子供たちと作る防犯・防災マップ。500人も集まるという清掃活動。「掃除って数人でやったらしんどいけど、たくさんでやると楽しいんですよ」と笑う。「無理なく、楽しく」が信条だ。髪を金髪にした若者たちも活動に引っ張り込み「ヤングサポート隊」と名付けた。
先端技術も取り入れて
GPSやICTなど新しい技術は積極的に取り入れた。2005年、NPO法人「さかいhill-front forum」設立。この年にできた堺市立東文化会館の指定管理者となり、堺市で初のコミュニティFM「エフエムさかい」を開局した。中高生も参加して、拠点となった同館は住民たちの交流の場にもなった。残念ながらエフエムさかいは2015年で終了したが、今も惜しむ声は強い。
一方で「人の力がすべて」「想いの共有がカギ」と言う池﨑さん。自分でできないことも、その道に詳しい人に協力してもらえばよい、と割り切る。役所に提案したり議員と相談することもあるが、特定の党派にこだわらない。「地方議会って、地域の人が議員になってもええんちゃうかと思うねん。なにも議員を『職業』にしなくても、最低限の保証だけして、ボランティアでね。いろんな人が参加して、自由に意見を言える場であれば」と理想を語る。
教育と文化のまちづくりへ
まちづくりの成功例として講演依頼を受け、請われるまま各地に赴くことも多い。
これまでの活動は「防犯」から始まった。コミュニティFMを始めたのも防犯に役立てるためだった。だが、それだけにとどまらない。
「安全安心はまちづくりの『入り口』。みんなに、絶対必要なことやから。でも、登美丘地区には独自の歴史・文化の伝統がある。かつては織田作之助もこの地に住み作家活動を続け、倉橋仙太郎は『新民衆劇」を旗揚げし、演劇活動にとどまらず、地元の協力も得て『自由学園』や『民衆大学』、『図書館』の計画も進めていた。新文化のまち『文化村』。低き物質生活に甘んじて、高い精神生活を取る。人権問題にも大正末期より先駆的に取り組んでいたんです」。
今後は教育・文化のまちづくりにも、いっそう力を入れたいと言う。長年の活動が評価されて今春、旭日双光章を受章したが、まだまだやりたいことがいっぱいだ。