堺大空襲の語り部に/高7回・中野亘子さん
1945年、殿馬場国民学校3年生だった中野さんは2つ上の兄とともに金岡国民学校に学童疎開した。母親と弟は車之町の実家に残った。そして空襲があった7月10日。その日はたまたま兄が高熱を出したため母親と弟も前日から金岡に来ていた。未明に誰かの叫び声で街の方を見ると一面火の海。死者1860人、全焼家屋18009棟を出した堺大空襲だ。自宅も焼夷弾の直撃を受け、がれきと化した。「兄が熱を出してなかったら、母と弟はどうなっていたか」と語る。通っていた殿馬場国民学校は校舎や運動場に激しい爆撃を受け、間もなく廃校になった。後にこの地に建てられたのが殿馬場中学校だ。
戦争が終わってからも不発弾の処理中に火だるまになって亡くなった上級生がいた。4年生の夏休みの宿題では食用植物としてヒメムカシヨモギやヒメジョオンの乾かしたものを1貫目(3.75kg)持ってくるようにと言われた。今も当時の記憶は生々しく残る。
時代は移り、戦争をゲーム感覚でしかとらえていない若い人たちが戦争を「かっこいい」と言うのを聞いた。人間は死んでも生き返ると思っている子ども達がいるという。これではいけない、自分たちの世代の体験を伝えていかねばと思う気持ちが次第に募っていったある日、堺市がピースメッセンジャー(堺大空襲 語り部登録ボランティア)を募集していることを知り、応募した。その後、応募したことも忘れていたころ堺市から連絡があり、今回の活動となった。
自分が体験したこととはいえ、人前でうまくしゃべれるかどうか不安だったが、本番では当時の子供たちの服装を示した自作のイラストを持って行って見せるなど工夫を凝らした。「父母のこえ」という当時ラジオで聴いて覚えた歌も歌った。親元を離れ疎開した子どもたちを歌った歌で、今思い出しても胸がしめつけられるような気持ちになるという。中野さんのそんな思いが伝わったのか、児童たちは姿勢を崩すことなく熱心に聞き入り、終わったあとは一人一人から「ありがとう」と感謝の言葉が。質問する児童もいたそうだ。
ところで中野亘子さんといえば三丘生にとっては「三丘むすびの会の中野さん」。むすびの会は母校創立80周年を記念して1975年に発足した三丘生のための結婚相談の会だが、中野さんは準備段階からこの会の世話役として参加、今年3月まで代表を務めていた。また、母校を卒業後、就職、結婚、三児の母となったが、ずっと胸に秘めていた「大学に行きたい」という思いをかなえるべく53歳で大阪市立大学二部(経済学部)に入学、58歳で卒業したという経歴の持ち主。
「むすびの会の仕事をしていたときと一時期重なって、しんどかったけどとても楽しかった」と笑いながら語る。そんなパワフルな中野さんにまたひとつ、「語り部」という肩書きが加わったようだ。
(2017.7.11)