三丘同窓会

市民の手で守られた いたすけ古墳/60年前 宮川徏さん(併1期)らが保存運動

 世界遺産の国内候補に決まった百舌鳥・古市古墳群にあって、1955(昭和30)年に破壊の危機にあったイタスケ古墳は、全国初の文化財を守る運動によって保存された。保存運動の推進に関わった歯科医の宮川徏(すすむ)さん(併設1期)が、「いたすけ古墳を守った男」として読売新聞(8月8日付)で紹介された。

 戦後の復興に伴う宅地造成などで、百舌鳥古墳群では戦後10年の間に、15を超える古墳が満足な研究もされずに姿を消した。堺中学在学中の終戦直後から、同窓の4期先輩である森浩一さん(中47期)らによる百舌鳥古墳群の調査に加わった宮川さんは、古墳が取り壊される際の緊急発掘にも数多く参加、古墳が壊されていくのを目の当たりにしていた。

 55年8月、私有地だったイタスケ古墳が開発業者に売却され、翌月には宅地造成工事用の橋が濠に架けられた。天皇陵などの陵墓を除くと、周濠を巡らせた完全な姿が残る唯一の古墳だったことから、森さん(当時泉大津高教諭)や宮川さん(当時大阪歯科大在学)など考古学研究者の呼びかけで、「堺市イタスケ古墳を護る会」が結成された。取り壊しが迫る中、古墳保護の必要性を各方面へ訴え、署名活動や保存に向けた買い取りの募金も行われた。新聞などで大きく取り上げられたこともあり、地域の運動は全国に広がっていった=下は1955年10月29日朝日新聞。
 その結果、堺市が開発会社から古墳と橋の買い取りを決定(後に国と折半)、11月の史跡仮指定を経て、翌年5月には正式に国の史跡として保存が決定した。イタスケ古墳保存運動は、その後の文化財を保存する市民運動の原点として語り継がれている。

 奈良県立橿原考古学研究所の共同研究員である宮川さんは、歯科医になってからも精力的に研究を続け、2015年3月、「イタスケ古墳の保存運動から60周年」と題した講演では、前方後円墳は「後円に対してどのような比率で前方部が造られているかで被葬者の属性が推測できる」と長年にわたる研究成果の一端を紹介、「いたすけ古墳を宅地化するためにつくられた橋は60年で半分朽ちてしまった。1600年経った古墳はそのまま泰然として残っている」と締めくくった。

 森さんは2013年8月、85歳で亡くなった。考古学と文献史学を総合した「古代学」、遺跡全体のありようを重視する「遺跡学」、地域の歴史や文化を広い視野でとらえ直す「地域学」などを提唱。研究成果は講演や著書で広く一般にも伝え、考古学の第一人者となってからも在野精神を貫いた。
 長く森さんと調査活動を共にした宮川さんは、2014年5月に同志社大学で開かれた「森浩一の考古学」の企画展、本年8月には泉大津高校での「森浩一先生に学ぶ講演会」に招かれて鼎談に参加、森さんの功績を語った。

※古墳の名称は、55年11月の史跡仮指定の際に「いたすけ」と、ひらがな表記に統一されたが、それ以前は「イタスケ」とカタカナ表記が多かった。


1983年に建てられた碑。保存運動のことも記されている。
(2017.9.14)