三丘同窓会

時計への情熱、今も ─ 日本初のCMW、末 和海さん(中47期)─

 「CMW」という言葉を聞いたことがあるだろうか。
 「Certified Master Watchmaker」の略で「公認上級時計師」と訳される。単に時計の修理ができる人、ではない。1つの時計を、部品から全て自分で作り出して完成させることができるほどのレベルであり、その試験は学科・技術ともに超難関。時計職人なら誰もが羨望のまなざしを向ける資格と言われる。
 中47期の末 和海(すえ かずみ)さん=宮城県在住=は25歳でその試験に合格、しかも技術試験のために軸方向寸法を100分の1ミリまで測定できる工具(アキシャルマイクロメーター)を自分で考案、それが後に製造販売されCMW受験者必須の工具になったという。天才技師の名をほしいままに時計一筋の人生を歩み、昨年は91歳にして初の自伝「稀世の『時計師』ものがたり」(文藝春秋企画出版部)を出版。今も日本時計師会名誉会長として後進の育成に携わっている。

堺中生の頃はすでにプロ職人並み

 幼い頃から時計に興味を持っていた。5、6歳の頃、山之口商店街の時計店の前で、修理をする時計職人をいつまでも眺めていた記憶があるという。小学校時代は模型飛行機に熱中したが、その後、鉄道模型を経て興味はいつしか時計の分解・修理に。独学でありながら堺中生の頃はすでにプロの時計職人並みの腕前に達していた。


第47回卒業生(1945年3月。三丘資料室所蔵資料から)

 1945年、戦況悪化のため全国の中学4年生の卒業は1年繰り上げられ、堺中も47期生は1年上の46期生と同時に卒業させられた。末さんは大阪工業専門学校(3年制。現在の大阪府立大学工学域)精密機械工学科に進学。3年生の夏休みには時計学の教授を通じて「在外父兄学生同盟」という団体から「困窮学生を支援する資金づくりのために堺東に時計修理店を出したいので協力してほしい」と頼まれ、応じると連日大盛況で夏休みどころか夜も昼も修理の毎日となったという。時には「難物」に出会うこともあったが、その過程でさらに時計の奥深い世界に魅せられていく。

 49年、20歳で大阪府立大学の助手に。この年、「日本時計学会関西支部」が発足、設立発起人の一人となる。研究会には研究者や技術者だけでなく小売業者も全国から参加、毎回熱心な議論が繰り広げられ、大いに盛り上がった。

 53年、アメリカ時計学会の公認資格であり、世界的にも権威を有する前記のCMWとCW(初級時計師)の試験を日本にも導入しようということになり、「アメリカ時計学会日本支部」が発足。そして54年9月、日本で最初のCMW試験が行われ、末さんを含む2人が合格した。この時は日本初ということで一般紙でも報道された。以後、80年までに800人のCMW合格者が誕生する。

時計メーカーで技術を発揮

 府大を3年で退職した後、自ら時計店を開業して実績を積んだ末さんは、1956年に東京のロレックスサービスステーションに就職。その後、当時世界一の薄型時計「シャトー」で注目されていた高野精密工業に就職、同社が伊勢湾台風で壊滅的被害を受けた後その事業を引き受けたリコー時計(現リコーエレメックス)、自動車時計メーカーのジェコー、と企業内で活躍することになる。
 リコー時代には「リコーダイナミックオート33」、曜日と日付が夜中の12時に瞬間的に変わる「リコーオートジャスト」、新型脱進機で精度を高めた「リコーダイナミックワイド」、手巻き高級時計の「リコーダイナミックエスコート」等の開発を手がけた。量産品としてはうまくいかなかったものもあるが、いずれも時代を切り開く画期的な製品。「ワイド」は一人で、一枚一枚設計図を書き上げた渾身の作である。


ロレックスサービスステーションに勤務していた頃。右が末さん。

 67年から労働省中央技能検定委員会学識経験者委員となり、2006年まで40年にわたって就任。70年に千葉で開催された「技能五輪国際大会時計修理職種」では競技運営全般の責任者であるショップマスターを務めた。ジェコーでは生産体制の改革を任されるようになり、やがて役員となり、関連会社の社長にも就任した。

クオーツ時計隆盛の陰で

 一方、時計業界ではこの間に大きな変化が起こっていた。クオーツ時計(水晶時計)が70年代から急成長、市場を席巻する。メーカー各社はクオーツにかじを切り、ゼンマイを使用した機械式時計は売れなくなり、それに伴って機械式時計のエキスパートであるCMW試験の受験者も急速に減っていった。81年にはついに中断、実施主体である日本時計師会も、その後長い休眠状態に入ってしまう。

 クオーツ時計の隆盛もやがて勢いをひそめた。クオーツ時計は正確で、実用品として定着したが、今日、その役割は携帯やスマホに取って代わられてしまっている。片や機械式時計は一定の愛好者を持ち、高級化もあってファッションアイテムとして再び注目されるようになった。だが、日本ではこの間に機械式時計修理の高度な技術を持つ人材が減少の一途をたどっていったのだ。

 末さんは危機感を持った。

日本時計師会を再発足、34年ぶりにCMW試験を実施

 休眠状態にあった日本時計師会を再発足させるべく、末さんは一人で活動を始めた。
そして2013年、日本時計師会再発足、2014年、CMW認定試験の実施にこぎつけた。こうして実に34年ぶり、801人目のCMWが誕生した。


2014年5月、34年ぶりに実施されたCMW試験会場での立会委員。左端が末さん。

 末さんは2017年まで日本時計師会会長を務めた後、後進に譲ったが、今も提言を続けている。クオーツ旋風が吹き荒れた時代は機械式時計にとっては「失われた20年」であった。これを取り戻したい、若手人材の育成をと願っている。CMW試験はその後、15、16、17年と実施し計5名合格、CW試験は16年から実施、計8名が合格した。

            

 「稀世の『時計師』ものがたり」は末さんの自伝でありながら時計を通してみた戦後史ともいえる。後半は「資料篇」として、末さんが雑誌「時計」に1956年〜1957年に執筆した「脱進機の実地修理」とアメリカのCMW試験の学科試験問題(1954年版)を収録、貴重な一冊となっている。全国の書店およびオンラインで購入できる。

(2021.7.7)