三丘同窓会

第4回三丘アカシアトークカフェ開催
岡田遥平さん(高55回)「南部バングラデシュ避難民緊急医療支援と救急医の経験」

 11月2日午後2時から、三丘アカシアトークカフェ第4回が開かれた。今回は高55回・岡田遥平さんが自身の経験を基に語る「南部バングラデシュ避難民 緊急医療支援と救急医の経験」。61人が参加した。

 ミャンマーではイスラム系少数民族「ロヒンギャ」の多くが住む西部ラカイン州で2017年に大規模な暴動が起き、数十万人ともいわれる住民が隣国バングラデシュに避難する事態となった。岡田さんは救急医として京都第二赤十字病院に勤務していた2017年11月17日〜12月7日、現地に派遣され、電気も水道もないキャンプ地で連日診療に当たった。現在は京都大学大学院医学研究科博士課程在学中である。

「救急医になる!」高2で決心
 そんな岡田さんだが、救急医を志したのは高2の時、「こちら救命センター」(浜辺祐一)を読んでからだという。自分は救急医になるしかないと思った。だが、当時の成績は360人中300~320番。模試を受けてみたが偏差値40、もちろんのE判定だったそうな。
 しかし、駿台予備校で「修行」、さらに河合塾で「修行」、修行の結果、無事に京都府立医大に入学。卒業後、京都第二赤十字病院に入職。救急医としてのスタートを切った。

 2012年4月の京都祇園軽ワゴン車暴走事故。運転者を含む8人が死亡した事故だ。岡田さんも一人の重症患者を担当したが、懸命の治療も虚しく、この時は助けることができなかった。

 2013年8月、死者3名を出した福知山花火大会での露店爆発事故。この時は全身やけどを負った男の子を担当した。入院期間は半年以上に及んだが、つらい治療にも耐え、後遺症はあるものの元気になってくれた。
 
もっと体験を積みたい
 救急医は責任は重いが、やりがいのある仕事だ。もっともっと体験を積みたい。岡田さんは南アフリカでの外傷外科短期研修へ。
 現地は治安の悪いところで、なんと、ほとんどの家には鉄条網が張られ、電流が流れているという。
 研修を受けたのはヨハネスブルグにあるChris Hani Baragwanath 病院というアフリカ最大、世界でも3番目に大きい病院。初日から包丁で胸を刺された男性が運び込まれた。傷は心臓にまで達している。
 毎日何十人もが撃たれたり刺されたりして運び込まれる。様々な国から医師が来てチームを構成しているが、言語が一番の問題。だが、同じ患者を前にして、患者さんを助けたいという共通の思いがあれば、言葉の違いがあっても仕事はできると感じた。英語の勉強は今も続けているが。

 そして2017年、バングラデシュへ。70万人の避難民が暮らすキャンプはさながら一つの村のよう。だが、生きるための全てが不足している。トイレのそばに井戸があるという環境。当然、衛生面での問題がある。
 聴診器一つで診療するしかできない日々。竹とターポリンで作った診療所。栄養障害の子も多いが、その日の食べ物、水にも困る状況だ。

 症状の重い患者は50キロ離れた病院に連れて行くしかない。だが、連れて行けるか、連れて行っても帰ることができるか。移動手段も限られ、慎重にならざるを得ない。腹痛を訴えた女性は岡田さんの判断で親族がかごに乗せて病院へ運んで行った。結果、手術をしてもらって良くなったと聞いた。

 そうはいかないケースもあった。双子が生まれたが、様子がおかしいので見てくれと言われた。低体重出生児で、全身状態もよくない。このままだと命を落とす。でも、50キロ先の病院まで連れていく間、双子以外の幼い子供たちをどうするか。結局、親は病院に連れていかないことを選択した。双子は翌日には一人が、その翌日には残る一人も亡くなってしまった。

何ができて、何をすべきか


 我々には何ができて、何をすべきか。
 悩んだ。難民支援20年の大先輩である医師が「我々にできることは笑顔を見せてやることだけだ」と言う。
 辛い経験だったが、医療の現実を見た思いだった。

 溺れてる人を見つけて助けてあげることができた。だが、また別の人が溺れている。助けても助けても溺れる人はいる。なぜここに浮き輪がないのか。柵はないのか。一人の医師ができることには限界がある。救急医療のシステムを作らないといけない。そう思うようになった。

 救急医というのは、事前に予約したり自分で選べるものではない。どこで倒れても同じような医療が受けられるようなシステムを作らないといけない。しかし、現実問題として救急医が不足している。救急のトレーニングを受けた、専門の救急医が少ない。エリアによっては救急と名がつく医者はゼロ、というところもある。
 経験豊富な「神の手」を目指すのでなく、データに基づいて標準化された手順、みんなが同じような医療が受けられる。そのことが大事だ。

大先輩の横田順一朗さんが!
 様々な問題を抱えた救急医療。会場からも質問が相次ぐ。
 そこで、岡田さん「横田先生、いかがですか」と意見を仰ぐ。なんと、この道の大先輩、横田順一朗さん(堺市立総合医療センター副理事長、高21回、写真下)が会場に来ていたのだ。横田さんは救急医療の世界では著名な存在だが、岡田さんは横田さんが高校の先輩であることを、最近まで知らなかったと言う。

 横田さんは「救急医療は、一人や二人の努力ではどうにもならない。そして、岡田さんのように、医者になってすぐ、あるいは最初から救急医を目指すような人は、ほぼいない。例外なんです。過酷な仕事だが、今は社会全般が楽な方に流れる風潮がある。
 だから、地域社会が限られた医療のリソースを優先順位を決めて使えるようにしないといけない。例えば順番決め。どの患者を優先させるか。一般の人にもわかるような形でしていかないといけない。
また、119番に通報が行くと、どこへ連れて行くべきか、タイムリーにわかるように、病院側はフラッグをあげて『こういう患者を診ることができる』『こういう患者は診れない』ということを示しておかないといけない。
 119番をかける前に#8000(小児救急電話相談)をかけると相談に乗ってくれる また、救急車を呼ぶべきかどうか迷った時には救急相談サービス#7119も定着してきた。今はこれらシステム作りがやっとできてきたところだが、まだまだ。60%くらいの出来かなと思っている」と語った。

 ちなみに横田さんが中心となってまとめられた「外傷初期診療ガイドライン日本版(JATEC)」は救急医のバイブルとなっており、全国の医師がこの教科書で勉強しているそうだ。

 この日は岡田さんの同級生からの質問もあった。岡田さんの妻で救急医でもある麻美さん、母親の綾子さんも参加、家族からみた岡田さんの一面が語られるひとときも。かと思えば担任だった恩智理先生が「2年の面談で『医者を目指している』と言われた時には・・・声に出したかどうかわからないが『はあ?!』と言ったような。でも、その後考えを改めざるを得なくなった。ひょっとしたら1年、2年の時の成績はそんなに大事じゃなくて、それよりも本人の『こうしたい』という気持ちの方が大事なんだと思った」と語り、参加者は爆笑したりうなずいたり。今回もいつものように温かな雰囲気のトークカフェとなった。
 最後は恒例の(?)記念写真で、はい、チーズ!



 
(2019.11.14)