三丘同窓会

2023年総会ゲスト講演
橋口博一さん(高38回)「頂点への道」 (抄録)

   
 

 自己紹介をさせていただきます。高38回。83年に三国丘高校入学、84年にセンバツに出場、母校から慶應義塾大学に進学、その後大阪ガスに入り、マネジャーや副部長を経て2018年に監督になりました。今日はその当時の野球部長、浦野さん(※浦野光晴さん・高34回)にも来ていただきました。来んでもええのに来ていただきまして、ありがとうございます(笑)

プレーヤーとして

小学生の時からキャプテン

 野球を始めたきっかけですが、子供の頃は、今みたいにゲームとかなかったので学校から帰ったらあたりまえのように公園で野球してました。壁あてしたり、親父とキャッチボールしたり、近所の窓ガラス割って怒られたり。

 小4のときに茶山台エンゼルスに入りました。初めてのユニフォームはごわごわの綿のユニフォームでしたけど、うれしかった。今は少年野球では禁止になってる変化球を投げたりした。おかげでぼくの右肘は曲がったままです。
 今ならスマホで映像を撮ってすぐにわかるけど、当時はなかった。写真好きのお父さんが「連続写真」を撮って見せてくれた自分のフォームに幻滅したのを覚えてます。キャプテンをしてました。

 若松台中学でも野球部に入りました。村田校長や野球部の岡田先生にはお世話になった。岡田先生は国語の先生なんですが、熱血漢で指導に没頭してた。あるときぼくが「ちっ」とか何とか言ったら思い切りなぐられた。家に帰っても耳が「キーン」となってるので医者にいったら鼓膜に小さな穴があいてた。今やったら大変ですが、親に言うと「おまえあほやな。よっぼど悪いことしたんやろ!」とまた怒られた。そんな中学時代ですが、中学でもキャプテンをさせていただきました。

母校入学と同時に野球部入部

 三国丘高校に無事入れまして、野球部に入りました。
 その年大阪府秋季大会。松田(※松田光広さん・高38回)…今日、来んでもええのに来てますけど(笑)…松田がずっと一人で投げてて、むちゃくちゃいいピッチャーやったんです。得意のスライダーで、甲子園で優勝したPLを3安打に抑えた…松田のことをほめるのは初めてかもしれないけど(笑)。うち(母校)は4安打。今日来てるキャッチャーの八木さん(※八木繁幸さん・高37回)が松田の、キレの良すぎる送球を取りきれなくて、それで1点入って。結局決勝で敗退、1対0で負けて準優勝でした。

 その後の近畿大会では松田がまさかの乱調。自分を見失ったかのようなピッチングで2回戦敗退、ベスト16に終わった。甲子園の可能性はもうなくなったなと思った。しかし、松田の好投が評価されて選抜に出られることになったんです。今やったらTwitterでたたかれたかもしれませんが。
 決まったのは2月1日ですが、それより1週間くらい前からざわつき始めた。テレビ局が来たり取材が入ったり。われわれは「出場はないやろ」と思ってたんですけど。
 当日は僕は今井先生(※今井英夫先生=1971年~1985年在職)の生物の補習を受けてまして、胴上げに間に合わなかったら超かっこ悪いなと思ってました。なんとか間に合いました。

センバツ出場

 母校の甲子園出場は50年ぶり・2回目だったんですが、当時、50年前の大会に出場した人が来てお話しされました。「わしはな、甲子園で3三振したんや!」と。しかも負けたんやと。なんでそんなこと言うのかなと思いましたが、なんと相手校は京都商業、ピッチャーは沢村栄治! そらすごい、桑田よりすごいと思いました。

 ぼくらは強くて勝ち上がっていったチームじゃないので、いろいろ珍プレーまがいがありました。甲子園ではじめてゲッツーを決めたチームって、そんなん多分ないと思います(笑)。「三重盗」もあった。満塁の時に監督がスクイズのサインを出して、ショートの森田は何を思ったのか、足を上げる瞬間に走った。左ピッチャーと間違えたとか言って。すると、ピッチャーの三塁牽制けんせいを捕球したサードから本塁への転送球がそれて、満塁ですから三重盗になった。この記録は破られることはない。四重盗はないですからね(笑)。 セカンドの松内は、甲子園が公式戦の初打席でした。そんなこともあまりないと思う(笑)。

 5回に松田の右ひじにデッドボールがあたり、がんばって投げたんですが、痛みで投げられなくなり、最後はもう悲劇のヒーローみたいになった。9回裏ノーアウト満塁、2点差でフォアボールで押し出し。そこで松田がぼくのところにきてボールを渡し、「橋口、もうあかんわ。頼むわ」と。もっと早よ言え!って話ですが(笑)、急きょリリーフすることになり1つアウトを取って、サヨナラ打を打たれました。
 このときはもうビデオがあったので、後から自分のフォームをビデオで見られた。そしてまた幻滅しました。
 母校は日大三島に6:5で敗れ、1回戦で敗退となりました。

高校時代といえば井坂監督(※井坂義次さん・高20回)。この人は野球の知識はものすごいものがあった。吉野コーチ(※吉野精一さん・高18回)は、今日来られてますけど、データ野球の走りやったと思う。牽制の練習をむちゃくちゃやりました。グラウンドの一部しか使えないので、狭いところで、牽制とかトリックプレーみたいなのをいっぱいして、それはけっこう実ったと思います。

 当時は野球部は10人ちょっと。その前もその前も7人とか6人とかだった。それが甲子園出場の次の年は40〜50人。おまけにマネジャー希望の女性が30人くらい来たんですよ(会場爆笑)。最終的には4〜5人になりましたけど。すごい所帯になったわけで。でも、その後、あまり勝てなかったですね。

一浪して慶應に入学

 三国丘は文武両道とかいいますが「文武別道」の人もいまして(笑)、あまり勉強しなかったんですが、慶應に憧れてた。指定校推薦で慶應の枠があると知って、先生にお願いに行ったんですが「おまえの成績『3』しかないから無理や」と言われ、まったく取り合ってもらえませんでした。仕方なく、引退後しっかり勉強することになりました。

 1年目は慶應しか受けず、当然落ちました。そこで駿台予備校の早慶コースの試験を受けたんですが、落ちました。これは、もう、一番ショックでしたね。ただし、予備校には「二次募集」というのがありまして、これにめでたく合格しました。そしてなんとか一浪して憧れの慶應義塾大学に進学することができました。はじめての寮生活も体験しました。四畳半に先輩と2人。親が用意してくれた新品の布団の上に先輩が汚いユニフォームで座って座布団がわりにしてました。

 慶應野球部は思い描いてたイメージとだいぶ違って、かなり封建的でした。
 前田祐吉監督…私は仲人もしていただきました、もうお亡くなりになりましたが…には大変影響受けました。当時はまだまだ、怒鳴って、殴って、走り回してという、古い封建的なやり方が多かった時代。そんな中で「エンジョイベースボール」をモットーとする監督でした。アメリカに遠征したり。私は3年間、夏にハワイのアイランドリーグに勉強に行かせてもらったりした。ところが、あるときまた僕がいらんときに「ちっ」と言ってしまって、ノックバットで思い切り突きが入った。そんなこともありました。

 早慶戦で優勝争いをしました。
 当時は明治・法政が強くて早慶戦で優勝争いということはあまりなかったんですが、私が4年生でキャプテンで4番を打ってたとき、春リーグ戦でたまたまそうなりました。当時の早慶戦は最終週で消化試合になっていることが多かったのですが、優勝争いになって大変盛り上がった。7回に3対3で1アウト満塁の場面で打席が回ってきましたが、結果は三塁ゴロゲッツーで、残念ながらこの早慶戦に敗れました。今でも「おまえのゲッツーがな〜」と言われます。
 でも、その優勝争いがあったのでベストナインに選ばれて、六大学の選抜でハワイ遠征に行きました。そのときのメンバーに今の早稲田の小宮山監督、立教の溝口監督らがいます。


社会人時代

 大学卒業にあたって…プロになるほどでもないし、東京の人混みの中で生活するのも無理やな、長男だし大阪に戻りたいと思ってたところ、住金と大阪ガスが声をかけてくれまして、どちらも同じ道玄坂のスエヒロやったんですが、監督と一緒にご飯に連れていってもらいました。住金は普通の、まあ一般席で、大阪ガスは個室を用意してくれた。それで大阪ガスに決めました(笑)。

 当時は社会人野球は金属バットを使ってた。いまは木ですけど。金属バットはめちゃくちゃ飛んであぶない。日生球場は社会人になって見ると狭くてとんでもない。そんな中で社会人がやると、10点勝負になる。スコアボードを超えるホームランが出たというくらい。
 私が入った年に、大阪ガスが、初めて日本選手権で準優勝しました。

 東京と大阪はストライクゾーンが違う。東京は「甘々」。大阪はガチガチにきびしい。ストライクやなと思ってたら「ボール!」というときもあった。試合前に審判に挨拶に行っといてよかったなと思いました(笑)。

指導者・管理者として
 少年野球の指導をやっていた時期があります。みんな、選手のお父さんが指導してる。「昭和の指導」です。殴る、蹴る、怒鳴る、走らす。それが普通。技術論なんかない。感覚だけ。子供に伝えることもうまく説明することもできない。そんな中で指導者をやりましたが、うまくいかないなと思いながら、やっていたのを覚えています。

 大阪ガス野球部のマネジャーもやりました。これがものすごく勉強になった。よそのマネジャー見てると気遣いがすごい。先読み、段取りがすごい。ぼくはそれまで全然そんなことをやってなかった人なんで、その後の社会人生活でも役に立った。

 会社の管理職になって…、今もやってますが…思うのは、まとまることの難しさ、ですね。年代も、それまで歩んできた環境も違う人が一緒にやるわけですから。多くのことを学んだ時期でした。

監督として

社会人野球の世界

 社会人野球はアマチュアの一番上に位置する。その上に「プロ」があるわけですが、レベルは相当高い。
 企業チームとクラブチームがある。大阪ガスのような企業チームは、今は100くらい。クラブチームとあわせて300〜400チームで優勝を争う。

 社会人野球のメインの大会としては都市対抗野球(夏)、そして日本選手権大会(秋)。
 都市対抗は予選敗退チームから補強選手3名を選べるのが特徴です。あくまで都市対抗なので。日本選手権は単独チームですが。どちらもトーナメント方式なので緊張感があります。

 社会人野球出身のプロ野球選手はかなりいます。大阪ガスからは能見篤史、小深田大翔、末包昇大、そしていまやトップスターになった近本光司(阪神)は、ぼくが監督で都市対抗で優勝したときの選手です。



 大阪ガス野球部は選手29名で大卒6割、高卒4割(2020年)。毎年5人採用すると5人やめてもらう。そのことを告げるのは監督の仕事。一番きつい仕事でした。僕はこれを3年やりました。一番大事な仕事でもあります。

 野球部といっても、契約金があるわけでもない。うちの会社ではクラブ活動という扱いです。土日に試合があってもその分の給料は出ない。クラブ活動やから。
 一般的には30歳くらいで引退して社業につく。引退後のほうが長いので、その後もしっかり仕事してくれるような子を採用することになります。

監督に就任、二大大会を制す

 就任して最初に言ったのは「連覇できるチームを目指す」ということ。それまで一度も優勝してなかったけど、そう断言しました。


 大阪ガスは昭和53年に硬式野球部ができたという、比較的新しいチームです。平成3年、15年、16年に日本選手権大会で、平成12年、27年に都市対抗で準優勝。「シルバーコレクター」と言われたが「コレクターは好きなものを集める人。われわれは好きで『シルバー』を集めてるわけじゃない。『ゴールド』を取ります!」と反論した。

 大阪ガス野球部の特徴は明るい、全力プレー、盗塁が多い、そして、あきらめが悪いことです。
 優勝した2018年の都市対抗。1回戦、信越クラブ。苦しみましたが最後に引き離して8対2。2回戦、新日鉄住金鹿島。満塁ホームランを打たれましたが逆転で5対4。準々決勝、NTT東日本にスリーラン打たれて、3点差になっていましたが、5対4で何とか粘り勝ち。準決勝、JR東日本。これも終盤まで競っていましたが、最後に近本がレフトに放り込んで逆転勝ち。決勝は2対0で三菱重工神戸に勝ちました。5試合で13盗塁でした。

 翌年優勝した日本選手権。1回戦、ホンダ鈴鹿。延長11回、1対0。しんどい試合でした。2回戦、JFE東日本。4点差を開けられましたが逆転し、5対4。準決勝の三菱岡崎。5点差開けられて、いよいよこれは無理だなと思いましたが、延長10回まで持ち込んで7対6と逆転。最後、日本生命に4対1で優勝。この大会5試合で15盗塁。これも記録的な盗塁数でした。

監督としての考え

 監督は会社の管理職と同じです。運営、管理から採用、渉外、試合中の空気を変えること…それから、勉強が必要ですね。監督になったときは私もしばらく野球を離れていたので、本を100冊くらい読みました。

 選手を怒ることはしなかった。殴ったり蹴ったりして強くなるなら簡単やけど、そんなことはない。何かあってもすべては監督の責任。
 監督の意見を押し付けたり選手を萎縮させたりしない。

大きな方針を示す

 監督は大きな方針を示してやる。さっきの「連覇」もそう。それも、繰り返し。選手はすぐ忘れるから。何回も繰り返しているうちに意識するようになる。
 選手は必ず監督を見る。何かのタイミングで、ちらっと見てくる。だからこっちも、ちゃんと見てるよということで声をかけたりなんらかのコミュニケーションをとるようにした。

選手の起用方法

 とにかくどんどんチャンスを与えた。喜びのあるステージを与える。
 あと、ベテランが乗ってくると若手も乗ってくるので、なるべくベテランを乗せて、先頭に立たせるようにした。

選手の力以上をひきだす

 選手はやっぱり怖いんです。プレッシャーから解放するにはどうすればいいか。なかなか難しいと思いますが、ひとつは、責任をこっちに持ってくること。盗塁を失敗することもあるし、見逃し三振をすることもある。でも、いいから、思い切っていけと。思い切り挑戦して、失敗したら、挑戦した勇気をたたえる。そういう空気を作っていくと、選手はだんだん怖がらなくなる。それがプレッシャーから解放するということかなと思うようになりました。

一社会人を育てる

 「一社会人を育てる」という気持ちでやりました。社業に戻ったときに活躍できるように。野球部もひとつの組織。チームの中でなにがしかの役割を持たせ、ミーティングを重ね、学んでいく。会社でも同じだと思いますけど。

常に感謝の気持ちを

 グラブやユニフォーム、スパイク。すべて貸与されたものです。感謝しろ、手入れはしっかりしろと言ってきた。靴は意外と磨かないもの。でも、靴が汚れていると怒りました。なんで磨けへんねんと。おかげでうちはみんな靴はぴかぴかです。ユニフォームの着方など身だしなみにも気をつけるよう言った。常に感謝の気持ちを持って、応援してくれた人にはありがとうございますと、それを言葉にして伝えることが大事だとも言ってきた。

何があっても動じない

 監督は試合中は何があっても動じたらあかんと思う。取材中、カメラマンは何かあるとズームで監督の表情をとらえようとするけど、「橋口さんは全然変わらない」と言う。そらそうです。選手もエラーしたら監督の顔見ますしね。失敗したら笑ってやるくらいでいいと思う。



戦う心構え
 惟一心

 「惟一心(これいっしん)」という言葉があります。チームの心が一つになれば、いかなる大敵にも勝てるという意味で、昭和61年、大阪ガスの都市対抗初出場時に、故西山磐元会長がチームに贈った言葉です。紀元前11世紀ごろの中国で、兵わずか3千の周が心を一つにして億万の兵を有する殷を破った故事に基づくそうです。
 今でも「ワンチーム」とか「一丸となって」とかいいますけど、昔から変わらず、こういうことが大事なんやなと思う。大阪ガス野球部の永久のスローガンになってますが、私も監督になったとき、これを年度のスローガンにしました。

 積極的なプレー、全力プレーをする

 高校野球、全力で1塁まで走れと言われますよね。あれは義務ではなく、私からすると権利であって、審判がアウトと言うまでは、まだアウトじゃない。自分から権利を放棄する必要は全くない。
 積極プレーでの失敗は「ナイストライ」。失敗を責めず、トライした勇気をみんなで讃える。失敗なくして「大成功」はありえない。

堂々とプレーする

 監督もそうですが、選手には堂々とプレーしてほしい。これは意外と難しい。下を向いてると相手はやりやすいんです。一喜一憂せずに淡々と、ピッチャーはマウンドで絶対に下を向くなと。常に堂々と前を向いてると、相手はいやなものです。

途中経過は気にしない

 「流れ」なんか存在しないと思ってる。経過を気にせず結果にこだわる。僕はむしろ、2点ぐらいリードされてるほうがやりやすかった。
 ヒット&ランは嫌いです。打者の打つ方向を決めるのはナンセンスやと思ってます。

勇気!

 時間が足りなくなってきたので最後に実例を。

 大谷という外野手がいる。近本と同じで足が速い。しかし、1年目で牽制受けて2回アウトになり、それから走れなくなった。スタートが切れない。僕は「ええから走れ」と言い続けた。それで少しずつ走れるようになったある日、牽制を4回か5回受けて、それでも走ったら2メートルくらい手前でアウトになった。コーチは「あんだけマークされたら走ったらあかん」と言った。
 僕はその時は何も言わなかったが、一晩考えた。そして翌朝言った。
 「牽制受けて走れんようになったんは5年くらい前やったかな。それから、あれだけ牽制受けてもスタート切れる勇気、持てるようになったんやな。それでええ。明日からも走れ!」

 そして、近本。MVP取って、わがチームから去り、今は阪神で活躍している。
 1年目で盗塁王になった。そのときインタビューで「一番大切なことは何ですか?」と聞かれて近本は「勇気です」と答えた。僕はうれしかった。



■ 橋口 博一(はしぐち ひろかず)
  1983年、母校入学と同時に野球部入部。半年後には4番打者として近畿大会大阪府予選に出場。母校は決勝で桑田、清原を擁するPL学園に惜敗、準優勝となったが、同期の松田光広投手らとともに翌春のセンバツで母校50年ぶりの甲子園出場に貢献した。
 慶応義塾大学に進み、主将となった90年には一塁手として東京6大学のベストナインに。翌91年大阪ガスに入社し、現役で4年間プレー。マネジャーやコーチも務めた。
 その後は社業に専念していたが、2013年副部長として12年ぶりに野球部復帰。18年に監督就任。同年夏の「第89回都市対抗野球」で大阪ガス悲願の初優勝、翌19年秋の「第45回日本選手権」でも初優勝を果たし、社会人野球の二大大会を制した。
 現在大阪ガスマーケティング株式会社法人開発営業部長。55歳。
 



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