三丘同窓会

ロック歌手・内田裕也さんは三丘生だった
 本年3月に亡くなったロック歌手の内田裕也さん(本名:内田雄也)が三丘生だったことをご存じだろうか。

 内田さんは1939(昭和14)年西宮市生まれ。戦時中は高野山の近くに疎開し、その後家庭の事情で何度も引っ越しをしている。
 中学時代は河内長野市、堺市、大阪市と転々とし、中学校も清教学園、三国丘中学校、旭陽中学校と3校に在籍した。旭陽中学校卒業後、大阪府立旭高校に進学するが、中途退学。その後1956(昭和31)年に母校の定時制に編入する。しかし翌年母校も中途退学しているため、同窓会名簿には名前は記載されていない。

 在学時の記録では生徒会で書記を担当していたことがわかっているが、母校でどのような高校生活を送っていたかは定かではない。内田さんの2年先輩の森田正朝さん(定4回)によると「一度一緒に宴会をやったことがあるが、コップを箸で叩きながらリズムをとっていたことが印象に残っている」とのこと。在学時からミナミのジャズ喫茶「ナンバ一番」のバンドで歌っていたらしい、という情報もある。

 内田さんは自伝「俺はロッキンローラー」(1976年)で次のように述懐している。 「旭高校のあと、ブラブラしてたら、夜間の高校へ行けッていわれて、そン時の定時制の高校の文化祭で、はじめて一人で唄ったんだよね。もちろんギターを弾きながら。(中略)弾けるッたってメチャクチャやってただけだけど ── ウン、いまでもメチャクチャだけどね。文化祭では「ハートブレイク・ホテル」をやったよ」

 日本を代表するロック歌手が、ギターを弾きながら初めて1人で歌ったのが何と母校の文化祭なのであった。
(中学・高校時代の略歴は「俺はロッキンローラー」(1976年/講談社)を参照しました)
(2019.12.29)