三丘同窓会

「拝啓 われらが先生!」 第2回・東嘉伸先生 / 恩師を慕い母校の教師に
シリーズ2回目は母校で長く体育科教諭を務められ、現在同窓会副会長でもある東嘉伸さん(高7回)にご登場いただきました。

村田弘先生に激励されてハンドボールに
 ──まず、なぜ母校の先生を志されたのかを教えてください。

  私は終戦後の堺に学び、鳳小学校、上野芝中学校を卒業後、母校の三国丘高校に入学できた。体育は1年坂本若雄、2年矢島誠治、3年村田弘の各先生だった。部活はバスケットボール部で活動。昭和30年に日本体育大学に入学した時、恩師であり、ハンドボール指導で全国的にも有名だった村田先生から「君はさして高身長のほうでもない。日体大に入ったら僕のやっているハンドボールにしろよ!」と激励され、ハンドボールを選んだ。大学を出て教員になれたら、お世話になった村田先生や矢島先生がおられる三国丘高校の体育の先生になってやるぞと強く思った。

世界を舞台に活躍/夢と消えたモスクワ五輪
 ──大学卒業後、母校に着任後も先生はハンドボールで大活躍されますね。

  ハンドボールを始めてからは高校時代にバスケット部で鍛えたステップやパスのテクニックを取り入れ、身体の小さい日本人がいかに体の大きい外国の選手に対応できるかを考えていた。東京オリンピックの年、三国丘の教員をする傍らチェコスロバキアの世界選手権大会に出場。日本がノルウェーチームを破り、外国から初勝利を挙げた貴重な経験だった。遠征チームの指導は日体大の先輩で、日本ハンドボール協会専務理事の高島烈先生。翌年には中国遠征にも出かけた。この時には当時の周恩来首相と固く握手した思い出がある、あったかい手だった。
 
1974年から10年間、母校の教員と全日本のコーチとを兼任することになった(写真はその頃)。選手時代に体が小さく苦労したので、1m92の蒲生晴明、1m87の志賀良弘などの大型選手をそろえ、76年のモントリオール五輪では9位となった。出場権を得た次の80年モスクワ五輪ではこれらの選手をそろえ、最高のチームに仕上げたが、JOCの臨時総会で出場ボイコットが決まり、残念だった。この時に詠んだのが「ひるがえる 日の丸の夢 モスクワに 五輪の炎 消えて今なお」という歌。5月24日のことだった。

 ──恩師の村田先生についての思い出はいかがですか?

  あれこれと思い出は多い。ハンドボール部は創部70年ほどになるが、いつも元気をくれるOB・OG会の東京同窓会には村田先生と2人で出席、その帰りには静岡にも寄せてもらった。今年もハンドボール・バスケットボール合同で3月9日に行われ、21名のメンバーが集まった。さらに帰り道、静岡でも下車し、バスケの山之上誠君(高21回)たちのお世話で昼食会を10名ほどで行った。どこに行っても相変わらず村田先生のファンは多い。以前、酒席では私について「トン(東)は酒が弱いからあんまりつぐなよ」との心遣いをしてくれていたのを思い出した。

 ──先生は〝花の7期生〟(高7回)でいらっしゃいますね。

  サッカー界、バスケット界の重鎮である川淵三郎君はいつも元気をくれる同級生だ。テニスでインターハイ優勝した中村靖之介(せいのすけ)君=故人=、デビスカップ杯出場の松浦督(すすむ)君、戸堂博之君は7回生の誇りだ。また、若くして同窓会会長となった柔道部の嶋田美継(よしもり)君は親友中の親友だ。

 
「三国丘以外には勤める高校はない」
 ──先生は長く三国丘高を勤められたあと、他の高校には行かれなかったのですか?

  当時はまだ公立高の年数制限がなかったし、それに僕自身は「母校の三国丘以外には勤める高校はない」と常々思っていた。長く勤める間も「この学校は僕らが守らねばならぬ学校だ」という「三国丘愛」を持っていた。ハンドボール部は元旦も練習。とにかく1年間休むことなくユニフォームを着た。母校の教師時代は生徒指導でやや厳しいこともしたが、「生徒を守る」ためだと筋道を通したことはある。
 体育の授業でも常々言ってきたが、「難しいこと、きびしいものほど挑戦する価値がある」。例えば、砂場で棒高跳びに挑戦させたのも、たやすい目標ならすぐに達成してしまうからだ。挑戦するということは常に前進するということだ。
 僕が学級担任を持ったのは確か24、36回生。回数は多くなかったが、僕にはこの学級担任をしたことが貴重な経験となった。
  昭和60年の春、当時の彼谷(かや)校長先生から「先生は三国丘で尽くすだけ尽くされたから、ご自分のためにも関西外大へ行かれませんか?」と誘われ、同大学で10年間勤めた。彼谷先生は楽しい方で、教職員を21チームに分け、校内でテニス大会をしたことがある。僕は彼谷先生と組み、テニスで堺市民大会に出場もしたよ。プール学院大学でも非常勤講師を5年、計15年間の大学教員生活を送ることができた。

 ──特に記憶に残っている生徒さんはどなたですか?

  記憶に残る人と言うと、ハンドボール部の人たちはもちろんのこと、運動部仲間や学級担任した人たちなど、すべて印象深い。強いてあげるとしたら、ソフトテニス部の岩本洋子さん(高23回)かなあ。今も弁護士として活躍している。私に24回の同窓会を開くようハッパを掛けてくれたし、僕が子どもたちにテニスを教えたことも褒めてくれた。学年同窓会の時も会の進行などで活躍してくれている。

 ──お仕事を離れてからは、堺市の教育委員を長く勤められましたね。

  教育委員はその自治体の教育施策について、積極的に意見を公表し、オープンな立場で教育内容の活性化を促進する使命があると思う。当時の坂之上委員長は三国丘高の5回生で母校のPTA会長を引き受けられた。私はお嬢さん(36回)の担任をさせてもらった。また、小学校時の先生の息子さんは24回で担任した。身体を動かす体育を指導しながら学級を担任するのは、座学とはまた違った観点から一人ひとりの個性を理解するという特長を持っているので、教育委員会でも経験を活用できたのではないかと思っている。

 ──最後に、東先生がこれほどまでに打ち込まれたハンドボールの魅力とは?

  ハンドボールはバランスの取れたスポーツだ。ドリブル・パス・シュートと「走・跳・投」と三つの要素を含み、ある面、バスケットボールよりもハードだ。ドイツなどでは女子体育指導としてもてはやされた。私はこの3要素がそろったハンドボールはスポーツの原点だと考えている。
(2019年3月 聞き手=高19回・小林昇一)


 東 嘉伸(ひがし よしのぶ) 1937年1月27日生まれ。日体大卒。1963年〜1986年、母校体育科教諭として勤務の後、関西外大、プール学院大に勤務。堺市教育委員も務めた。2女の父。妻の翠さんも日体大出身で元高校体育科教諭。チェコの世界選手権中に生まれた長女「知恵子」さんはドイツ在住の音楽家。次女・文子さんの長女も母校の70期生。