三丘同窓会

2017年総会ゲスト講演
川淵三郎さん(高7回)「夢があるから強くなる」 〔抄録〕


 

 僕の一生は、三国丘高校に入り、サッカー部に誘われて入った、そこから始まって今に至っている。三国丘に入ってなかったら人生はまったく違ったものになっていたことは間違いない。母校というより、一生を決めた高校だ。

 僕は演劇をやっていて高2までNHKのラジオドラマに出たりしていたし、サッカーには興味がなかった。たまたま高校に入って「サッカー部に入ったら(高松の大会に出るので)四国に行けるで」と言われ、船に乗りたかったので、それはいいとサッカー部に入った。しばらくしたらやめようと思っていたが、コーチが良かった。だんだんうまくなり、どんどんおもしろくなった。「超高校級、川淵三郎」と書かれるようになった。もうサッカーが好きで好きでしようがなくなっていった。

 二浪して早稲田に入ったが、あの2年間は一体何考えてたんだろうと思う。ただサッカーが好きなだけ。毎日高校に行って後輩達とサッカーをやっていた。でも、その2年間が人生を決めた。それから40年後には、僕はJリーグのチェアマン、そしてその後日本サッカー協会会長になった。

 人生、何がどう影響するかわからない。でも、ふりかえってみれば、そのときどき、やりたいと思ったことを一生懸命やればいいのかと思う。


分裂していたバスケットボール界を統一 

 2014年4月、元日本バスケットボール代表チーム監督をしていた小浜さん(小浜元孝さん)が突然、僕を訪ねてきた。当時NBLとbjリーグの二つに分裂していたバスケットボールリーグを統一してほしいと言う。この年11月までに統合しないと国際試合に出られないようにするとFIBA(国際バスケットボール連盟)から言われた、このままでは日本はオリンピック予選に参加できないと言うんだ。よくわかりませんけど僕なりにベストを尽くしてやりましょうということで検討を始めた。

 バスケットボールは競技人口でいうと世界的に見てサッカーよりずっと多い。でも日本では新聞記事には出ないし、テレビのスポーツニュースにも出ない。JBA(日本バスケットボール協会)ではプロ化の話が出ても企業がうんと言わないのでなかなか話が進まない。そこで2005年に業を煮やした6チームで独自に立ち上げたのがbjリーグ。これと、JBAの傘下にあるNBLとの二つのリーグに分裂していた。

 企業中心のNBLに比べるとbjリーグは資金力で劣る。サラリーキャップが全然違うから、日本代表クラスの選手はみんなNBLに行く。しかし少年バスケットスクールだとか、地域に根ざして、地域の人にサポートしてもらうなど地域との密着性という努力についてみれば、圧倒的にbjリーグ。一方のNBLはまったくそういう努力はしない。そういう状況だった。そして10年前からFIBAに「統一しろ」と言われているのに、JBAは何もできないままだった。

 JBA会長と、bjリーグ会長など関係者3人を呼び、僕を交えて3回、延べ6時間会議したが堂々巡りで話がまとまらない。僕は縁の下の力持ちになろうと思って一生懸命やったが、個人的に頼まれてやってるだけなので何の権限もない。とうとう10月にJBAの会長は辞任。僕は怒り心頭だったが、結局、期日までに回答が出せなかったから、日本はオリンピック予選に出場できなくなった。

初代チェアマンに

 その後、FIBAのバウマン事務総長に会い、日本バスケ改革のタスクフォースのチェアマンになってくれと言われた。文科省からも頼まれ、やることにした。火中の栗を拾うようなものだが、僕しかいないと思った。バスケット関係者からは「バスケットボールがサッカーに乗っ取られる」とか言われたが、そんな価値は全くない。かげでみんな僕の悪口を言っていたことは分かる。「バスケットのことをろくに知らないのに」と。
 そんなこともあって、みんなを集めて「僕はバスケットのルールは何も知らない、強化をどうすればいいか何も分からない。それを改革しにきたんじゃない。経営を、ガバナンスを改革にきたんで、別にバスケットボールのルールを知らなくてもできるんだ。Jリーグで11年、サッカー協会で6年、サラリーマンとして会社で経営の勉強をしてきた。そしてこの2~3週間、バスケットボールのことばかり真剣に考えてきた。これほど考えたやつがいるか! いたら手を挙げてみろ!」手を挙げられないですよね(笑)

 とにかく時間がない。だから、これまでを振り返って問題点を分析して、それから次を考えるとか、みんなで意見を出し合って・・・というような方法は取らなかった。トップダウンしかないと考えた。そして、「私案」を出した。5000人以上収容できるアリーナ。そして80パーセント以上をそのアリーナでやる、「ホームアリーナ」が必要なんだと。

 いろんな条件を満たすアリーナは数が限られるし、他のスポーツも使う。だからどこのチームもだいたい過去7~8箇所のアリーナを使っていたが、それではだめだと。プロの場合は絶対ホームアリーナが必要なんだ。なかなか理解してもらえなかったが、「とにかく市長のところへ行け」と言った。地域社会の発展のためだと市長を説得して、トップがオッケーすれば、あとはみんなついていくんだから、と。そうして、1ヶ月後にまた集まって会議をしたときには、20のクラブが5000人のアリーナを造ると言ってきた。最初に盛岡市長が「作りましょう」と言ってくれたのは力になった。一気呵成に変わったんだ。Jリーグがどういうことをして変わっていったか。そのやり方を知っていたから。

 JリーグをPRできたのは、ナベツネさんがいちばん大きかったね。ナベツネさんが事あるごとに「地域に根ざすなどという空疎な理念を掲げる川淵がいるようではJリーグは成功しない」と言われた。僕のことを独裁者というから僕も「独裁者から独裁者と呼ばれて光栄です」と言ったり(笑)。でも、ナベツネさんのおかげで話題にしてもらえたし、盛り上がった。Jリーグの恩人だと、今は心から思っている。

 2015年4月1日、僕と弁護士の2人でBリーグ(ジャパン・プロフェッショナル・バスケットリーグ)という新しい組織を立ち上げた。そして4月30日を期限にして、それぞれが所属する2つのリーグに脱退届を出してBリーグに入会届を出したものだけ認めると宣言したら、みんなNBLやbjリーグをやめてBリーグに合流したんだ。

ヴィジョンとワーク・ハード

  こういった経験から思ったことは、ヴィジョンが大切だということだ。何のためにやってるのか。ヴィジョンもなしにずるずる自転車操業を続けていてもだめなんだ。

 本で読んだが、ノーベル賞を受賞した山中伸弥さんは最初外科医を志していたが自分には向いていないとわかり、難病の人たちを助けるための研究者になろうと決めた。それでアメリカにわたった。そして3年間、研究を続けていたが、ある日所長から研究者として成功する秘訣は「V(ヴィジョン)とW(ワーク・ハード)」だと言われた。「シンヤ、君がワーク・ハードしていることはよく知っている。でも、どんなヴィジョンを持ってワーク・ハードしているんだ」と聞かれた。「それは、いい論文を書いて、いい地位について・・・」と言ったら「それはヴィジョンを獲得するための手段にすぎない」と言われ、大ショックを受けた。「ヴィジョンあってのワーク・ハード」だとわかった。そこでもう一度初心にかえった。自分が目指すのは難病の人たちを助けるための研究だ。ここでヴィジョンとワーク・ハードが結びついたんだ。

 日本ではなんでもかんでもワーク・ハード。ヴィジョンもなく。これじゃいけない。
 じゃあ自分がヴィジョンを持ったのはいつかというと、実は51歳のときだった。88年の5月2日。その日、関連会社への出向を言い渡された。思ってもみなかったことで顔面蒼白になった。
 そのとき改めて、自分は何のために生きてるのか考えた。それまでは自分の出世しか考えてなかったけど、世のため人のため、何ができるか考えた。そしたらやっぱり、サッカーだと思った。世界ではサッカーは人気だけど日本ではそれほどでもない。よし、日本でも世界で愛されているレベルまで、引き上げてみせよう! そう思ったんだ。

 ヴィジョンを持つのは若くても年取ってからでもいい。若いほどいい、とは一概に言えない。
 ある経済学者が13歳のとき、「君はなんのために生きてるのか」と聞かれた。答えられなかった。13歳だからね。すると「今は答えられなくてもいい。でも、50歳になって同じ質問をされたとき答えられなかったら人間として生きてきた価値がない」と言われたそうだ。
 人間、やっぱり志とかそういうものが必要だが、年齢には関係ない。もうちょっと若かったらとか、そんなこと、僕は一度も思ったことはない。もっと若かったらどこの高校に行きたかったかと聞かれたら、それはやはり三国丘高校だけどね。


■川淵 三郎(かわぶち さぶろう)
 1936年高石市生まれ。高石中学校では野球部。三国丘高校でサッカーを始め、3年生だった55年の第33回全国高校選手権大会出場。早大時代の58年に日本代表に選抜された。古河電工に進み、64年の東京オリンピック出場。強豪アルゼンチン戦では同点ゴールを挙げた。
 70年に現役引退、古河電工監督、ロサンゼルスオリンピックの強化部長等を歴任、日本代表チームの監督も一時務めた。88年日本サッカー協会理事、91年に日本プロサッカーリーグのチェアマンに就任。93年5月に開幕したJリーグ設立の立役者となった。また、ワールドカップ日本組織委員会の副会長として02年の日韓ワールドカップを成功に導いた。02年(財)日本サッカー協会キャプテン(会長)就任、08年同協会名誉会長。15年にはプロ・バスケットボールリーグ(Bリーグ)初代チェアマン就任。現在は、日本サッカー協会最高顧問、日本バスケットボール協会エグゼクティブアドバイザー。09年に旭日重光章受章、15年に文化功労者顕彰を受ける。



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