三丘同窓会

三丘ゆかりの芸術作品
 三丘資料室で保管していた芸術作品の調査・目録作成・写真作成を2017年秋に実施、100点近くの作品を確認することができました。2018年6月の一般公開では、特別展示「三丘ゆかりの芸術作品」としてそれらの中から代表的な作品を展示、好評を得ました。その一部をご紹介します。

旧職員の芸術作品(大正~昭和40年代)から

辻 良蔵(1884~1949) 『静物』

 昭和9年(1934年)~昭和21年(1946)、戦時の厳しい時代に12年間近く堺中学第7代校長を務め、文武両道の教育と誠実な人柄で「旧制堺中学の名校長」と称された。
 「十二紅」の俳号をもつ俳句を好んだほか、日本画、洋画にも造詣が深く、大阪で洋画のメッカと言われた信濃橋洋画研究所に通い、その縁で画家の工藤正義(1938~1945在職)を堺中に招聘した。
 展示の作品は、高2回・中島章一氏から資料室に寄贈されたもの。


福島 章(1888~1938)『静物』(左)『松濵清暁図』(右)

 堺市生まれ、東京美術学校(現東京芸術大)図画師範科卒業。大正3年(1914年)~昭和13年(1938年)、堺中学校で図画と剣道で教鞭をとった。
 大正14年から堺中の同僚だった永野忠一先生(1901~2003)によると「画筆をとる一面、剣道の師として裸足、黒袴の風貌は壮士の観さえあった」という。
 昭和13年(1938年)逝去、同年6月に本校で遺作展が行われた。


工藤 正義 (1906~1945)『自画像』(左)『海浜風景』(右)

 青森県五所川原市出身、東京美術学校(現東京芸術大)卒。新制作派協会に所属の画家で、同会の小磯良平に師事した。
信濃橋洋画研究所が縁で知り合った辻良蔵校長により、昭和13年(1938年)本校に招聘された。
 昭和20年(1945年)、40歳を前に病没。
 『自画像』は昭和19年(1944年)の作。昭和57年(1982年)に長女の森本玲子さんから資料室に寄贈された。 


横田 文男 (1911~1975)『静 物』

 昭和9年(1934年)東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科卒業。東邦美術院会員などを経て、昭和21年(1946年)9月に堺中学校教諭として着任。以来昭和50年(1975年)1月に亡くなる直前までの29年間、本校で美術・工芸科教諭として指導にあたった。
 資料室1階(右奥)に、彫刻「宣誓」が常設展示されている。
 昭和23年ごろから大阪府高校野球連盟理事を務め、全国高校野球選手権大阪大会の参加章メダルのデザインも担当した(右はその原型)。


同窓の芸術作品から

丹治 伊三郎(1902~1981)『白い階調』

 堺市生まれ、堺中20期(大正8年・1919年卒業)。東京美術学校(現・東京芸術大学)油絵科で岡田三郎助氏に師事し、卒業後は一陽会入会。
 画歴を重ねるとともに印象派と古典、両者の長所を取り入れた独特の画風を完成させた。
 関西画壇で活躍した作者の持ち味がよく表れているこの作品は、昭和53年(1978年)6月に、ご本人から資料室に寄贈された。


前仲 邦哉(1941~) 青白磁『壺』

 高12回、陶芸家。京都市立美術大学陶磁科に在学中は、富本憲吉・近藤悠三・清水久兵衛の指導を受けた。
 昭和44年(1969年)、横浜に彩霞窯を開き、東京、横浜を中心に個展を開催。
 現在は宮城県遠刈田に居を移している。


旧職員、同窓以外の作品から

中村 貞以(1900~ 1982) 『海 女』

 なかむらていい。大阪生まれの日本画家。
 2歳で手に火傷したため、合掌描きを工夫。浮世絵師の長谷川貞信 (2代目)に師事した後、19歳から美人画の巨匠北野恒富に師事。
 昭和7年(1932年)院展日本美術院賞第一号、昭和23年(1948年)には日展審査員、昭和41年(1966年)日本芸術院賞をそれぞれ受賞した。
 吉岡光雄校長(昭和59~61年在任)のメモによれば、戦後、府の教育委員会から提供され、校長室に掛けてあったものとのことである。


鳩山一郎  (1883~1959)  『精神集中』

 1954年(昭和29年)~1956年(昭和31年)の首相在任中、保守合同を成し遂げて自由民主党の初代総裁となり、日本とソビエト連邦の国交回復を実現した。
 この書跡は文部大臣在任中なので1931年(昭和6年)から1934年(昭和9年)までの間。また本校に残る書跡群はいずれも昭和6~7年頃の閣僚であることから、昭和7年に大阪で行われた陸軍大演習に関わるものの可能性が高い。この時、昭和天皇は新築された本校昭和校舎で休憩を取られた。それを記念する石碑(『駐蹕の碑』)が、旧三丘会館前に残っている。


斎藤 實  (1858~1936)  『士魂商才』

 海軍大臣、ジュネーブ海軍軍縮会議では首席全権を務め、犬養毅が殺害された五・一五事件のあと、首相に。陸軍関東軍による前年からの満州事変などの混迷した政局に対処し、満州国を認めなかった。
 2年後、内大臣として宮中にまわった直後に二・二六事件で射殺された。号である「皋水」(こうすい)の落款から、斎藤の書と思われ、昭和7年の陸軍大演習に関わる可能性が高い。
 残念ながら損傷が激しく修復が必要である。